ユリシーズとドハルは、ただ黙って部屋の片隅でゆらめくランプの炎を見つめていた。
狭い部屋だが、夜の闇を消し去るにはこの空間でも三つのランプが必要だった。アルコールを利用した、ごくごく簡単な仕組みの照明器具は昔から変わっていない。言い換えれば、昔の人間がずっと未来にまで使われる発明をしたということだ。逆に、現代の人間がそれを越えるものを作り出せずにいるということでもある。
「遅いのぅ」
ドハルはわざと大きな溜め息を漏らし、目の前にあるテーブルに両肘をのせた。
この部屋にあるのはそのテーブル以外はランプだけだ。
「もうしばらくお待ちを」
ドアの前で直立不動を保っている男が、何度目かの同じ台詞を吐いた。中肉中背、至って特徴のないその男はもう何十分もそうしている。
よく疲れないものだ。
「こっちはそんなに暇ではないぞ」
革命団『クリムゾン・フレア』。
それが、ヴォストークに接触を求めてきた革命組織の名だった。
滅多に動くことがなく、かつ小さな動きしか見せないクリムゾン・フレアは、しかしヴォストークに次ぐ勢力を誇っている。それは勢力、強いては戦力の増強に専念しているからだった。
ユリシーズのように人助けや、目に止まる奴隷の解放などは全く行っておらず、ひたすら動き出す機会を窺っている組織だ。
ドハルに言わせれば卑怯な連中の集まりである。
彼の考えでは、革命組織に最も大切なのは国家と同じで「支持」だ。どれだけ国民の気持ちを汲み、信頼され、同調してもらえるかが勝負なのである。
そもそも、ただ国が気に入らないからという理由だけで、革命組織というものは結成できるものではない。
「おぬしらと違って、ワシらは忙しいんじゃよ」
「止さないか、ドハル」
ユリシーズがそう言った時、部屋にノックが響いた。
すかさず男はドアを僅かに開け、外にいる何者かと小声で言葉を交わす。気に入らない動作だった。
別に止めろと言うほどのものではないが、そちらから呼んだのだから不快感を与えるような行動は避けて欲しいものだ。
「・・・お待たせしました」
男はそう言って頭を下げて、ランプの明かりを塞がぬように気をつけながら部屋の隅に寄った。
ようやく、到着したらしいクリムゾン・フレアの指導者が部屋に現れる。
最初に現れたのは、この地方では一般的な茶色の髪をした男だ。まだ若く、青年と言っても良い。おかしな形をした兜が特徴的だった。
普通、兜というのは頭全体を覆うものだが、この青年が装備しているものは目元だけを隠す物だ。
確かに、有り得る考え方ではある。
どの道頭部に攻撃を受ければ相当のダメージを受けることになるから、それなら始めから装備せず、安心感を払拭することも、見方によっては納得できる考えだ。ただ、目だけはどんなに注意を払っていても一回で潰れるか、一時的に機能を失うなど弊害が大きいから、守る必要があるというのだ。
もしくは、ただ単純に顔を隠したいのか。
そのどちらかである。
約束通り、剣は持っていないようだった。会談の条件として、予め帯剣を禁止してあったのだ。
無論、ユリシーズも丸腰である。
そして、次に入ってきた人物を見てユリシーズは驚愕した。
前に入ってきた青年と同じほどの身長の女性である。
肩にかかる紅の髪に、赤い瞳、赤いルージュを塗った唇、赤く塗装した軽鎧。
ユリシーズは言葉を発することができなかった。
しかし、女性の方はさほど驚いた様子はなく、相変わらずの美しい顔を無表情に保っている。
「自分はブルー=スノーブルと申します」
まず、青年が名乗った。続いてブルーは隣の美女を手で示す。
「このお方がクリムゾン・フレアの指導者・・・リリィ=サミュエル様です」
リリィと呼ばれた女性は無言で頭を下げた。
「ほほっ、これまたえらく綺麗な指導者さんじゃの」
ドハルは嬉しそうに言ってから、少し気取りながら親指で自分を示した。
「ワシはドハルじゃ。こっちは・・・」
「存じております。ユリシーズ=アルファイス様でしょう?」
「あ、ああ・・・」
ユリシーズは呆けたまま頷く。
それを疑問に思い、ブルーは首を傾げた。
当然である。
「どうかしましたか?」
「いや・・・」
「・・・そうですか。それでは、ドハル殿はこちらへ」
「何でじゃ?」
ブルーの予期せぬ言葉にドハルは目つきを変えて言った。それまでリリィにデレデレしていた助べえな老人では有り得ない。
だが、今度は逆にブルーの方が納得がいかないような顔をし、リリィを軽く睨みつけてから言った。
「リリィ様の指示です。互いに代表のみでご会談されたいと・・・」
「・・・どうするんじゃ、ユリシーズ?」
「私は・・・」
言いながら、ユリシーズはリリィの表情を窺っていた。
それで一瞬沈黙してしまうが、結局出たのは流れには逆らわないものだった。
「構わない」
「それもそうじゃな・・・こんな美人と二人きりになれるんじゃから」
「茶化さないでくれ」
「ほほっ・・・わかっておる」
演技がかった老人くさい動作で立ち上がり、ブルーに導かれるままドハルはその部屋を去っていた。
彼らが来るまでずっといた男も部屋を出てゆく。
二人だけの空間に、ドアが閉じる音が不気味なほど大きく響いた。
リリィはゆっくりと、しかし隙のない動作でユリシーズの正面のイスに腰を落ち着けた。そして、笑みを浮かべる。ひどく儚い、今にも消えてしまいそうな表情だ。
ユリシーズは背筋に寒気が走るのを自覚した。
「リリィ・・・王国に残っていたのか?」
「はい・・・お久しぶりです。五年ぶり・・・ですね」
「ああ」
まだ動揺しているようで、ユリシーズはうまく舌が回っていないようだった。
無理もない。
五年前に姿を消して以来、リリィは全くの音信不通だったのだ。死んでいるとは思わなかったが、まさか国内に残っているとは思わなかった。
それも、まさか革命団を組織しているとは。
「・・・驚かれましたか?」
「ああ・・・」
その時は思わなかったろうが、自分を客観的に見ることができたなら、果たしてユリシーズはどれだけ自分が間抜けに見えただろうか。完全に落ち着きを失っている。
「おっしゃりたいことがあるのでしたら・・・ご遠慮なさらずに」
そう言うリリィの顔は悲しげだった。
二人の過去にあった因縁を思えば当然のことである。
「私はあなたから全てを奪った女ですから・・・」
「・・・気にすることはないさ。君がいなくても、同じことになっていた」
ようやく、ユリシーズには相手を気遣うだけの余裕が戻り始めていた。
端から見れば、どちらが女なのかわからぬ美貌を持つ二人は、しばしの間見つめ合ったまま沈黙した。
とても甘い雰囲気ではない。
言葉を発するのが辛いのだ。
かと言っていつまでもそうしているわけにはいかなかった。
ユリシーズは意を決し、口を開いた。
「・・・何故、革命団を?」
「もう一度、あなたに逢いたかったから・・・と言ったら、怒りますか?」
その問いにユリシーズは答えられなかった。
またしても沈黙が訪れると思われたが、そうはならなかった。今度はリリィが決心を固めたのだ。
「ずっと忘れようと心掛けていましたが・・・一人になった時は、いつもあなたのことが浮かんできて、頭から離れませんでした」
「リリィ・・・」
「申し訳ありません・・・もう耐えられなかったのです。あなたに逢いたくて・・・」
「・・・それだけの理由で、私たちに接触してきたのか?」
「それは違います!」
慌てたようにリリィは弁明しようとしたが、すぐにまた表情を暗くして、ユリシーズの真摯な目から視線を外した。己の愚かさに改めて気がついたのだ。
「いえ・・・その通りです」
「失望したよ」
ユリシーズの一言に、リリィは驚くくらい大きく肩を震わした。彼女にとってはそれほどの言葉だったのだ。
「君はそれでいいかも知れないが・・・君についてきている者たちは、それを知ったらどう思う?」
「・・・」
「皆、虐げられている奴隷階級の人たちを解放しようと必死なんだ。中には、軍を抜けてまで私たちに力を貸してくれている者もいる。君はその思いを踏み躙っている」
「はい・・・」
リリィはもう声を発することができなくなっていた。これ以上は、何を言っても自分が惨めになると思えてしまったから。
だが、覚悟はしていた。
自分はそれだけのことをしたのだ。
そんな自身への怒りで打ち震えるリリィを、ユリシーズはしばしの間見つめていた。こういう状況で非情に徹しきれないのが彼だ。たとえ相手が一方的に悪くとも、許してしまう。
「・・・すまない。言い過ぎたな」
「いえ、本当のことですから・・・」
リリィは顔を上げることすらしなかった。
まさか涙していることはないと思うが、今の顔を見せたくないと思っているのは間違いがなかった。
「・・・合併の件だが」
ようやく本題に入ったユリシーズだったが、答えはここに来る前から決めていた。
「喜んで受け入れさせてもらおう」
「・・・ありがとうございます」
リリィがヴォストークに求めてきたのは、クリムゾン・フレアをその指揮下に入れて欲しいということだった。
そしてもう一つは、リリィをユリシーズと対等な立場に置くこと。
実を言うとこれは彼女自身ではなく、他のメンバー、特にブルーの要望であった。
いくら同じ志を持つ者同士と言っても、いきなり自分たちの頂点に立つ者が変わっては不愉快というものだ。彼らは軍隊ではなくあくまで同志たちが集まっただけの民間人であるから、そう簡単に新しい指揮者に素直に従えないのだ。
「これからは・・・共に戦おう」
「・・・はいっ」
リリィは自分に言い聞かせるように静かな声で、しかし力強く言った。
「ここにいたのか」
突然背後から声がして、ケイコは振り返った。
すぐに銀髪の長身の青年と、赤い髪の美女、その後ろに控えるように建っている茶髪の青年が目に入ってくる。
まだ何も聞いたわけではなかったが、何故だかケイコは不愉快さを感じた。
彼女は今、一人で散歩に出ていた。無論、許可など取っていない。勝手に宿から出て歩いている内に、この小川に辿り着いたのである。
「何か用?」
「今後行動を共にすることになったリリィ=サミュエル殿とブルー=スノーブル殿だ。こっちは、ケイコ=カザキだ」
「よろしく。美しいお方だな」
リリィはまるで男ような口調で言いながら手を差し出した。
だが、ケイコはその手を握り返そうともしないで、再び視線を川に戻した。透き通るような美しい水面は、時折陽差しを照り返してケイコの網膜を刺激してくる。
これまでにない反応にリリィは少し戸惑ったようにユリシーズの顔を見上げた。彼女とは正反対の、厳しい表情をしていた。
「ケイコ、初対面の挨拶くらいしてもいいのではないか?」
「うるさいわねえ。いい加減にしてくれる?」
近くに転がっていた石を思い切り川に投げ入れてから、しかし動作はゆっくりと立ち上がってケイコは振り返った。感覚的に、全員が自分より背が高いことが、意識はされなかったが彼女の癇に障った。
「ただでさえ信用ならないってのに・・・ワケのわからない連中を増やさないでよ」
「ケイコ殿、私たちはユリシーズ殿と志を共にする・・・」
「そのユリシーズが気に入らないのよ」
ケイコははっきりと言い放ち、三人とすれ違った。
それを引き止めようとは思わなかったが、ユリシーズは必要なことだけは言った。
「あまり遠くには行かないでくれ」
まるで親のような台詞である。しかし、事実勝手にここまで出歩いていたケイコだから、不可欠な忠告ではあった。彼女一人のために皆の予定を遅らせるわけにはいかないのだ。
「はいはい」
肩をすくめてケイコはその場から去っていった。とんでもない娘だと思われても仕方がない行動だ。
事実、ユリシーズはリリィがそう思っただろうと察し、すかさずフォローをすることにした。
「すまない。彼女は・・・」
「わかっています」
リリィは小さく苦笑をして見せた。ユリシーズは一応彼女にも事情を話している。
これ以上どうこう言うと、くどくなるだけだから言わないが、ケイコのことを誤解されていないのならそれで良い。
彼女とは、五年のブランクがあるが互いによく知っている仲である。リリィが偏見の塊ではないことくらいユリシーズにもわかる。
ただ、ブルー=スノーブルのことは、生憎全く以ってわからない。口調や身のこなしからして元軍人であるらしいことはわかるが、それ以上のことは本人に聞かなければわからない。
だが、ユリシーズはどうもこの青年に話し掛けにくいものを感じていた。何と言うか、ブルーからは他人を拒絶しているような雰囲気を受け取ってしまうのだ。
これは非常に珍しいことである。もう三十年弱生きてきたユリシーズの人生の中でも、こんな感覚を得た経験はほとんどない。
「私にも経験があります。独りは、辛いものです」
「・・・そうだな」
川に視線を戻しながらユリシーズは一瞬だけ悲しげな顔をした。リリィもそうだったのだろうが、彼にも独りになった時期はある。
誰も信じられない、誰も助けてくれない。
信じなければ自ら助けを拒んでいるのと同じことなのだが、そんな恐怖は誰しもが持つことだ。
ユリシーズも例外ではない。
ただ、それにどう対処するかは個々人によってそれぞれ異なる。助けが必要な人もいれば、自分の力で何とかしてしまう人もいる。
「ちょっと、いいかしら?」
「ん?」
ケイコが去っていった方向とはまた別の方から、ナディアが声をかけてきた。今日、彼女は朝から他の女性たちと共に村に情報収集に出かけていたのだが、どうやら休憩時間に入ったようだ。
ちょうど今は昼食の時間帯である。
「どうかしたのか?」
「荷物を整理するのに、男手が足りないのだけど・・・」
「ラルゴたちはいないのか?」
「昨夜、飲みすぎてまだ眠っているのよ。起こしても、二日酔いでまともじゃないと思うわ」
呆れたようにナディアが言う。
酒を飲むのは許したが、ユリシーズはきちんと量を弁えるように言っておいたはずだ。いくら骨休めが必要だと言っても、過度に渡ってはヴォストークとしての活動に大きな支障を来たす。
しかし、それよりもこれからのことを先に考えてしまうユリシーズは文句一つ言うことなく、ナディアの手伝いをしようとした。
そんなユリシーズの行動を読んでのことか、リリィが先に口を開く。
「ブルー、すまないが行ってくれるか?」
「しかし・・・」
「ユリシーズ殿とは、今後の活動を討議せねばならぬ。頼む」
「・・・承知しました」
ブルーは軽く会釈をしてから、ナディアに向き直った。
多分ユリシーズを連れてゆくつもりだったのだろう、予想外の展開に彼女は驚いたようだった。とは言っても、ユリシーズがリリィたちと討議をすることは昨夜から聞いていたので、すぐに納得をしてブルーに頭を下げた。
すでに彼らはヴォストークの全員に紹介されていて、先ほどのケイコで最後だったのだ。
「すみません、ブルーさん・・・」
「構いません。参りましょう」
「ええ」
ナディアはブルーと共に荷物の整理に向かった。
出発はあと数時間後であるが、クリムゾン・フレアが合流し人数がかなり増えたこともあって、皆はまだ荷物の整理に戸惑っていた。互いに紹介し合うのにも時間を要した。おそらく、ユリシーズたちが小会議を終えても、まだ出発できる状態ではないだろう。
いっそのこと出発を明日にしても良さそうなものだが、王国軍が革命団の鎮圧に本腰を入れ始めたことを考えるとそれは避けた方が良いと判断される。夜は確かに危険だが、リリィやブルーという頼りになる戦士も仲間になり、戦力が大幅に増強されたことでそれほど危険はないという結論に至った。
これが昨夜の内に話し合われたことである。
「それでは、ユリシーズ様・・・」
「ああ。ドハルが待っている」
二人は歩み出した。
「すみません、こんなことをさせてしまって・・・」
「我々は思いを共にする同志です。協力し合うのは当然でありましょう」
「そう言って頂けると有り難いです」
荷物の整理をしながら、ナディアは文句一つ言わずに作業を続けるブルーに感心していた。
他に見知った者がいないからだろうが、私語もない。
いつもラルゴや彼の周辺の者たちに手伝ってもらっているのとギャップもあり、余計にこの青年に立派だという印象を受けてしまう。賢くはないが体力があるラルゴたちなら、いつも同じような文句をたれるか、ナディアを口説こうとするかのどちらかである。
ただ問題なのは、皆がブルーを気にして仕事の能率が落ちていることだ。
彼自身は黙々と作業を続けているが、他のいつものメンバー、特に女性陣が集中を欠いている。目元を隠しているというミステリアスな面に惹かれているのと同時に、単純に男性が珍しいのだ。ユリシーズが率いる部隊は特別他団体との接触がなかったので、新しい顔ぶれと一緒に行動するということ自体が新鮮で刺激的なのである。
「・・・あの」
「はい」
思わず畏まってしまうナディアは、返事をしつつも作業を止めないブルーの方を向いた。
彼は同じペースで木箱を馬車に積み込んでいるが、彼女は医療品を整理する手を止めてしまっていた。
この村でも、前の戦闘で傷ついた戦士の手当てをしていたから、補充のし忘れがないかなどをチェックせねばならないというのに。
「ブルーさんは・・・・元々、王国の人だったですか?」
「・・・何故、そのようなことをお尋ねになるのです?」
「私たちの仲間にはそういう者も多いですし・・・あなたの言動もとても落ち着いていらっしゃるから」
「確かに自分は元々軍人ですが・・・名も無き小国であって、王国ではありません」
「・・・そう、ですか」
そうすると、ブルーの国は王国に滅ぼされたのだろうか。
そんなことを考えたりもしたが、ナディアは深く追求しようとは思わなかった。
ここにいる者たちは仲間であるには間違いなくても、全てを知り合った友人では決してない。
まして、触れられたくない過去を探ることなど許されるはずがない。
ユリシーズでさえ過去を話したがらないのに、会ったばかりの青年にそれをすることはできない。
ナディアは再び医薬品の整理に没頭し始めた。
話を止めると、とたんに周囲の声が大きくなった気がした。
自分たちと行動を共にする子供たちが、村の子たちと混じって遊んでいる声。
作業をしながらも、戦闘から離れたこの時間に存分に羽を伸ばす婦人の話し声。
ようやく起き始めた酔っ払い連中の苦悶の声。
どれもが生きている声だ。できれば、この先自由を手に入れるまで、彼らの声に死んで欲しくない。
天気もよく風も気持ち良いというのに、何故だかナディアの頭には自分の腕の中で死んでいった戦士たちのことが浮かんでいた。
志半ばに倒れた彼らは、皆自分たちに未来を託した。自らの妻や子供を託したのだ。
ヴォストークはそれを決して裏切ってはならない。
「・・・ねえ」
「えっ・・・」
突然肩を叩かれて、ナディアは慌てて振り返った。ユリシーズと同じで、考え事が深刻になりやすい性質だった。
「ローラ・・・どうしたの?」
そこにいたのはまだ十代の半ばに届かぬ少女だった。散切りにされた肩に届かない髪と汚れた服が、ひどくみすぼらしく見える。
ハサミという代物は治療に使っている物だけで精一杯で、髪を切ったりするような余裕はない。ヴォストークの者はそのほとんどが剣や小剣でそれを済ませているのだ。
ただ、上手い者がやればハサミを使ったのとさほど変わって見えない。ローラは運悪く下手な者に散髪を任してしまったというわけだ。
「ローラのぬいぐるみ知らない?」
「ぬいぐるみって・・・熊さんの?」
「そう。あたし、あれがないと眠れないの・・・」
ヴォストークにはこういう子供が多い。
時には殺し合いを目にし、中には自分の親が殺されてしまった子もいるのだ。物、あるいは人を心の拠り所にでもしなければとても正気ではいられないのである。
だから、ナディアは子供たちに接する際には細心の注意を払っていた。
そして、自分がうかつだったと気が付いた。急いでいたこもあったが、熊のぬいぐるみを先ほど箱に入れてしまったのを記憶していたのだ。
「ごめんなさい・・・もう箱の中にしまっちゃったわ」
「ええっ、そんなぁ・・・あたし、あれがないと・・・」
ローラは今にも泣き出しそうな顔をしてくれる。
このまま泣き出すと止めるのが楽ではないが、助け舟は意外なところからやってきた。
「ナディア殿、どの箱に入れたかはご記憶なさっていますか?」
「え、ええ・・・多分、始めの方だったから、奥の方にあると思いますけど・・・」
「ならば、私が探します。ご安心なさって待っていて下さい。・・・ローラ嬢でよろしいですか?」
「え、うん・・・ありがと」
見慣れない不思議な男にローラは少し戸惑ったようだったが、礼を言うと遠くの方で遊んでいる子供たちの方に走っていった。遊んでいる途中にふとぬいぐるみのことを思い出したのだろう。
ブルーはすぐに今までに積み込んだ荷物をまた外に出し始めた。
「ブルーさん、本当にごめんなさい。うっかりしてしまって・・・」
「次に気を付ければ良いだけの話です。人はそのために失敗をするのです」
まだ若そうな男の言葉にナディアは感心した。
面白い人。
様々な意味でナディアはそう思った。
「・・・それから、ナディア殿」
「はい?」
「私には皆と同じように接して頂いて構いません」
予想しなかった言葉だった。
ナディアは一瞬目を円くした。
確かにそういう礼儀にはこだわらない人間もいるが、ブルーがそういう人間だとは思わなかった。いや、考えもしなかった。
どういう意図があるのかはわからないものの、今のブルーの一言でナディアの彼に対するイメージが変わった。
「・・・私があなたよりも年上だからですか?」
勝手な判断ではあるが、ユリシーズと二つしか違わないナディアはこの青年より明らかに年上であるように思えた。
ナディアは急速にこの青年に興味が湧いてきた。今後も行動を共にするわけだから、互いにある程度知り合おうとするのは必要な感情である。
「そうは見えませんが?」
「まぁ・・・」
ある程度の年齢の女性であれば誰が言われても嬉しい台詞である。
ナディアもその例外ではなかった。僅かに顔が緩んでしまうのにも気が付かず、ナディアは手を止めて馬車から木箱を外に出すブルーを見やった。彼の素顔が見られないのが少し残念だ。
「軍人さんは剣がお得意なのではなくて?」
「ご婦人への配慮も心得ております」
「うふふふ・・・抜け目のないお方」
愉快げに笑ってから、彼女は立ち上がってブルーが外に出した木箱を移動させた。自分にも責任があるわけだから全てを彼に押し付けるわけにはいかない。
「自分が・・・」
「いいのよ、私が悪いのだから。優しいのね」
「恐れ入ります」
「ふふふ、あなたとは仲良くできそうだわ」
「光栄です」
全く笑わずに言うブルーが、ナディアには少しだけもどかしかった。
ユリシーズと似て律儀で生真面目そうな人だが、感情を表に出さないという点が決定的に違う。彼も大体の感情は抑えているが、楽しそうに笑ったりするというような、明るい感情は全て表情に出す。
ブルーにはそれがなかった。
「女性の方は問題ないと思うけど・・・」
ナディアはそう前置いてから言った。
「ヴォストークの男連中は気性が荒い人が多いから、気を付けて」
「存じております」
ブルーはそう言うが、ナディアには彼のその態度が心配だった。間違いなく男連中の反感をかうタイプの好青年である。
ユリシーズでさえ、ヴォストークの指導者として皆から認められるには数年の時間を要したのだ。
多少のトラブルは覚悟せねばなるまい。特に、ラルゴとブルーは近づけないのが得策である。あの大男は未だにユリシーズにつっかかる厄介な男だ。
「きっと迷惑をかけると思うけど・・・」
「仕方のないことです。同志とは言え、これまで全く別に行動をしてきた者はそう簡単には馴染めません。努力はしますが」
「そうよね・・・先が思いやられるわ」
今、ナディアの中で一番記憶が新しいのはケイコのことである。
ブルーの言葉を借りたとしても、ケイコは志すら全く自分たちとは異なった少女であるから、その意味では彼女に梃子摺らされるのは当然のことなのだろう。正直なところこれ以上人間関係で悩みたくないナディアは、ブルーの努力に期待をするしかなかった。
厄介事はケイコだけで充分である。
いっそのこと放っておきたいというのが本音だが、そんなことはユリシーズが許すはずが無い。そのくせ、自分でケイコの面倒を見ずにナディアに押し付けるのだ。ヴォストークの指導者という立場も差し引いても、ナディアは彼の一方的な主張が正しいとは思わない。
大体、ユリシーズは彼女のことを高く評価し過ぎているのだ。
いくら医学の知識があり、それなりに年も取って冷静さを持ち合わせているとは言え、彼女は一人の女性であって人間である。相手が記憶を失っているような少女だとしても、あそこまでの態度を取られては我慢も限界というものだ。
あの少女は本当に自分勝手だ。
他の者より良い食事を出さないと一口も食べないし、第一食事の時間帯に部屋にいるとも限らない。退屈なら友達を作ろうと努力すればいいし、自分に話し掛けてくれればいくらでも話し相手になってあげるのに。
初めは素直になれないのだろうと大目に見ていたが、最近はその考えも薄れていた。
ナディアはそんな自分を責めている。他人に対してこんな劣情を抱くことは今までにあまり経験がない。
「・・・ナディア殿」
「あ、はい・・・何?」
呆然と箱の移動という単純作業を繰り返していたナディアの視界には、所々に色が違う布が使われている熊のぬいぐるみがあった。少し視線を移動させると、すでに箱を出し終え、ブルーが中を確認していたことがわかる。
「これでよろしいですか?」
「ええ、そうよ。ありがとう」
自嘲じみた笑顔を漏らしてからナディアはそれを受け取り、子供の方に歩み出した。
ブルーはその背中をしばし眺めてから、出してしまった木箱を再び積み込み始めた。
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