「いつもいつも精が出るのぅ、おまえは」
「ドハルか」
巨大な剣を振り回していた若者は、その倍以上の時間を生きているに違いない老人に声をかけられて動きを止めた。
ドハルというその老人は年齢の割りに髪が多く、言動にもメリハリがあった。
ただ、顔は年相応で皺だらけであり、立派な白い口ひげをたくわえていた。
対する若者は、珍しい銀色の髪を背中まで伸ばした長身の好青年である。
その手にあるのは、通常軍人が扱う剣の倍はあろうかという怪剣だ。分厚いそれは、斬るということよりもその打撃力に重点をおいた、有り体に言ってしまえば金属製の巨大な棍棒である。
「毎日毎日、ようやる。見とるこっちが疲れるわい」
ドハルの溜め息に苦笑を見せて、青年は剣を地面に突き刺した。
近くにあった切り株に座る。それは昨日、薪を作るのに切り倒したものだ。
現在、彼らが居座っている大きな木造の建物は三階建てで、面積もそれなりに広かった。
同じものがこの周辺にいくつも設置されており、それらを転々としながら活動を続けている。
「みんなはまだ寝ているのか?」
「こんな早くから起きとるのはこの老いぼれとおまえさんくらい・・・」
「私もね」
新たに現れた声に二人の男性は素早く視線を移動させた。
建物の玄関から、若い女性が出てくる。
無論、知った顔だ。
慣れてしまったから似合っているようには見えるが、彼女が着ているのは一日分の食費と同等の価値しかない服だった。
老人も似たような格好だが、たくましい青年だけは違う。
訓練の途中であるから上は脱いでいるが、下は硬い革製のもので、服と言うよりは防具に近い代物だ。それはひとへに戦士とそうでない者との違いである。
「珍しいのぅ」
「昨夜はいつもより早く眠れたから」
女性はそう言って若者を見た。話には聞いているが、実際にこうして彼が訓練をしている姿を見たことはあまりない。
「おはよう、ユリシーズ」
彼の方も同様に返す。
そんな二人を老人は好奇の目で見つめていた。仲良さげな男女を見ると誰でも思うことだが、その仲が絶えず噂になっている二人だ。
「今朝も頑張っているのね」
笑顔で言いながらも、思わずナディアはユリシーズの胸板や腕に視線がいってしまっていた。
彼が着痩せするタイプであることは知っているが、いつ見ても圧巻だ。
他人に見せ付ける無駄な筋肉ではなく、実用性の高い瞬発力と持久力のバランスが取れた引き締まった筋肉にはどんな女性でも魅力を感じるだろう。
「体力を維持しているだけさ。特別に鍛えているわけじゃない」
本人はそう言うが他人から見れば十分すぎるほど過酷なトレーニングだ。
前にナディアはユリシーズの剣を持たせてもらったことがあるのだが、片側を浮かせるのがやっとだった上、腰を痛めた。
いざ戦闘になればユリシーズはそれを片手で振り回してしまうのだから、信じられない。
「・・・早起きも悪くないわね」
ナディアはそう言いながら大きく深呼吸をした。確かに早朝の森の空気は悪くない。
皆の会計係である彼女はいつも夜遅くまで残金と今後の出資予定とを計算しているので、必然的に寝るのが遅くなる。
早起きを求めるには少し厳しい条件だ。
「昨日の少女は?」
「え、ええ・・・」
ナディアが僅かに動揺してしまったのは、昨日のことを思い出してしまったからだった。
昨日、この付近を探索しているときにユリシーズが裸で倒れている少女を見つけたのだが、これがまた本当に美しい娘だった。
ユリシーズが最初に見つけていなければ、強姦されるか、人買いに売られるかしていただろう。そういう趣味のある貴族にならば高い金で売ることができるのだ。
だが、ユリシーズはそういったものとはまるで掛け離れた人間である。
彼が美少女の裸体を見たことを、本人ではなくナディアが気にしてしまうくらいだ。
その少女はこの建物に運ばれた後、医学の知識があるナディアが彼女の診察を試みた。
「怪我もないし、栄養状態も良好よ。どうしてあんなところに倒れていたのか不思議なくらい」
「良かった。話はできるのか?」
「目が覚めれば、いつでもできるわよ」
「それなら、様子を見てもいいか?」
「いいけど・・・まだ眠っていると思うわ」
「構わないさ」
ユリシーズはとにかく少女の無事な姿を見てみたかった。ひょっとすると、どこかにはあの美しい顔を見たいという欲求もあるのかも知れない。
ナディアはそれを心配していた
その視界の中で、銀髪の青年は鞘と同じところに放ってあった上着を着込んでから、革のベルトで大剣を背中に固定し、歩き出した。
少女がいるのは即席の医務室だ。
仕方なくナディアがそれに続き、ドハルが不気味な笑い声を漏らしながら彼らの後を追う。
この老人も美少女と噂の娘を見てみたいだろうし、何よりこの二人の若者を観察していたかったのだろう。
建物に正面から入り、三人はすぐに右に曲がった。その突き当たりの部屋が医務室だ。
一階にそれを設置したのは、言うまでもなく怪我人を運び易くするためだ。いざとなれば窓からでも中に入ることができる。
医務室のドアに辿り着くと、ユリシーズがノックをした。今、この中には昨日の少女しかいないはずだが、しばし待っても返事は返ってこなかった。
微かな期待を裏切られながらも気落ちすることなく、彼は続いてドアを開けた。
何度かしか使用してはいないが、消毒液の特有の臭いが鼻を掠める。
ふと、黒いものが視界に入った。
そのとたんにユリシーズは動きを止めた。ドアを開けることすら中断してしまう。
昨日の少女が、ベッドの上で上半身を起こしてこちらを見つめていたのだ。いや、睨んでいると言った方が表現としては正しいだろう。
少女は美しかった。背中に軽くかかる黒髪が、朝の澄んだ風に靡いていた。
彼女は白いが健康的な印象を受ける肌をしていて、口紅を塗ったかのような淡い赤色をした唇は少し濡れているようだった。
目を閉じて眠っている顔はあどけない少女のようだったが、こうして見ると艶かしい大人の女の魅力も感じることができる。
「誰?」
一言、少女はそう言った。不謹慎かも知れないが、綺麗でよく通る声だとユリシーズは思った。そう多くは聞けない美声だ。
だが、すぐにそれを忘れると、ドアを開いて彼女がいるベッドに近づいた。
不思議と少女は怖がるような素振りを見せなかった。髪の色や顔の形からしてどう見ても外国人なのだが、堂々とした態度を崩すことはない。
「気分はどうだ?痛いところはないか?」
「・・・別に」
「そうか」
そう言ってユリシーズは息を小さく深呼吸をした。安堵から出たものである。
昨夜、彼女は全裸で林の中に倒れているのを偶然発見されたのだが、不思議と外傷はなかった。
だから、返って心配だった。
あんな格好で夜を過ごせば風邪を引くのは当然だし、下手をすれば肺炎になりかねない。
たとえそうなったとしても、今の自分たちにこの地に止まってゆっくりと彼女を静養させてやれるだけの余裕は、残念ながらあるとは言い難い。
ナディアは無愛想な少女に、しかしできる限り優しく言った。
「あなたは気絶して倒れていたのよ。それを、この人が見つけてくれたの」
ドハルは熱心にこの少女とナディアを見比べていた。
共に希少価値のある美人であることには違いないが、全く異なった印象を受けるところが面白かった。
言い方はあまり良くないが、二人とも性格がもろに顔に出てしまっている。
この場にいる若者全員の年齢を合わせてもまだ足らないほどの年月を過ごしてきたドハルには、大体それくらいのことはわかる。自分で言うのも難だが洞察力には自信があった。
「だから、誰って聞いているでしょ?」
ドハルに言わせれば「案の定」だったろうが、少女の言い草に、正直言ってナディアはムッとした。多少和んでから自己紹介をしようと思ったのに、相手がそうはさせてくれない。
まず自分たちから身分を明かした方がいいだろうか。
と一瞬考えたが、自分たちの立場を改めて思い出したナディアはすぐに止めた。あまり気が長い方ではないのを堪えて、できるだけ穏やかな口調を保つ。
「・・・私はナディアよ」
「ナディア・・・変な名前ね。金髪にしてるし」
少女の言っていることは、ナディアのみならずユリシーズとドハルにもわからなかった。
「ナディア」というのはさほど珍しい名ではないし、当然のごとく彼女は生まれながらの金髪である。
それとも、髪の色を自由に変えるような技術を、この少女は知っていると言うのだろうか。
「そう言うあなたは?」
「・・・ケイコよ。カザキケイコ」
「カザキケイコ・・・?」
ナディアは思わず首を傾げていた。こっちの方こそ、この辺りの近隣諸国では見られないネーミングだ。
髪の色からも、どうやら外国人に間違いはないようである。生まれつき髪が黒っぽいだけではなさそうだ。
東洋人だろうか。実際に彼らに出会ったことはないが、話には聞いている。
「どう呼んだらいい?」
ユリシーズは尋ねた。彼女が早口だったわけでは決してないが、ファーストネームとファミリーネームの区切りがわからないような発音の仕方をしたのだ。
「どうって・・・ケイコでいいわよ」
少女はむしろ意外そうに答える。
彼女はまだ意識が朦朧としていた。現状を全く把握できない。
「そうか」
とりあえず区切りはわかったものの、彼らにはまだこの少女の姓名がわからなかった。あまりにも珍しい名前なのだ。
かと言ってあまり問い詰めるのも悪い気がしたので、ユリシーズは自分の名を教えてやることにした。警戒されると困る。
「私はユリシーズ=アルファイスだ」
「へっ・・・!?」
とたん、ケイコの表情が一変したまるで血の気が引くように顔が青くなる。
三人に小さな緊張が走った。
鼻の下を伸ばしていたドハルも厳しい顔になる。場合によっては手荒な真似も辞さない覚悟を密かにした。
だが、彼らの思いとは全く違った反応をこの少女は示した。
「嘘でしょ・・・なんで、ユリシーズがここにいるのよ!?え、ちょっと待ってよ・・・え、あ・・・」
少女は完全に混乱しているようだった。
理由は、当然ながらわからない。
「どうかしたのか?」
なんだか心配になってユリシーズは尋ねてみた。今までも何度か倒れている人を助けたことはあったが、こんな反応をする人間は初めてだ。
別にそれを望んでいるわけではないが、普通の人はまず礼を言うものである。
「ちょっと待ってよ・・・!」
不意にケイコは頭を抱えた。手がひどく震えている。
まるで何かに怯えているようだった。
誰かに襲われでもしたのだろうか。
そう思ってユリシーズは表情を暗くした。
「・・・大丈夫か?」
気の利いた言葉が見つからなかった。性分で、いらぬ心配までしてしまっている。
「ねえ、あなた本当にユリシーズ=アルファイスって言うの!?」
突然、ケイコは大声を上げてユリシーズに掴みかかってきた。
本当に不思議な少女だ。
ただ、彼女の力が弱々しかったことが辛かった。
「あ、ああ・・・そうだが」
「ちょっと待ってよ・・・ここ、どこなの?」
「詳しいことは言えんが、デリッツ王国領内とだけは言っておこうかの」
別にユリシーズやナディアを疑ったわけではないが、ドハルは彼らより早く口を開いた。
人間という生物の特徴を熟知している自分より、若い分この二人の方が口を滑らせる可能性が高かった。
特にユリシーズの性格を考えると、何の躊躇もなく真実を口にすることは充分有り得る。
「う、嘘、でしょ・・・それじゃ、ここは千年前・・・!?」
「何を言っているんだ?」
どうやら、ユリシーズの嫌な予感は外れてくれたらしいが、新たな問題が浮上してきたようだ。
まあ、とにもかくにもこの少女について確実に言えるのは、この国の人間ではないということだ。ユリシーズの銀髪以上に、ここまで黒い髪というのは珍しい。
彼はとりあえず一人動転するケイコから視線を離して、よく見知った二人に向き直った。
それに対してナディアは首を傾げ、ドハルは首を左右に振った。
遠回しな表現であるが、要はこの場をユリシーズに任せるということだ。悪く言えば発言を放棄した。
「ケイコ、少し落ち着け」
「ダメよ。ダメ・・・わかんない・・・っ!」
差し伸べた手を強かに弾かれてユリシーズは言葉を失う。
その肩をナディアが掴んだ。そうして、小声で言ってくる。
「少しそっとしておいてあげましょう」
「しかし・・・」
「ユリシーズ」
少し強い口調でナディアはその名を言った。
彼の悪い癖は、誰もが知っている。
彼女は懸命に直してもらおうと努力しているが、効果は一向に現れない。天性のものなのだ。
「・・・わかった」
ユリシーズは悔しそうな表情を作って、頭を抱えるケイコを見やった。
無力感が襲ってくる。
基本的に、彼は目の前で困っている人を助けないと気がすまないタイプなのだ。
「ケイコ・・・私は君の味方だ。それだけは覚えておいて欲しい」
相手が本当に聞いているかどうかはこの際追求しなかった。
後ろ髪引かれる思いのままユリシーズは踵を返して歩いてゆく。
ドハルもそれに続くが、ナディアは残った。こういう時は彼女が一人で残るのが暗黙の内に決まっている。
彼女は外科が専門だが内科や心療科もある程度こなせるし、何より優しい性格をしているから、ユリシーズは安心して彼女に任せることができるのだ。
女だけの部屋にドアの閉じる音が響く。
「・・・大丈夫、ケイコ?」
タイミングを計りながらナディアは口を開くが、ケイコは答えなかった。
正確には、聞こえていなかったというのが正しい。
彼女の頭は現状を整理するのが精一杯で、周囲の情報を取り入れている余裕などなかったのだ。
あらゆる神経が、一つの目的のために使用されている。
「どうなってんのよ・・・」
大声を出す気すら失せてきた。
何も思い出せないのだ。
自分の名前以外何も浮かんでこなかった。
記憶の引き出しを乱雑に開けても中には何もない。
もはや、どうして自分がユリシーズやデリッツ王国の名を知っているのかすらわからない。
自分はどこから来たのか、どこで生まれたのか、そしてどうしてここにいるのか。わからなかった。
記憶が消えていた。
だが、ケイコにその自覚はない。
わからないという感覚だけがある。
いくら答えを求めてもそれは見つからない。
自分の中のことではあったが、まさかその答えそのものが存在していないとは思わなかった。
「ケイコ・・・?」
不意に、怖いくらいに鮮明に女の声が耳に飛び込んできた。
そのつもりはなかったが、きつい視線をその女に向ける。
ナディアはケイコのあまりの形相に驚いたが、頬に走った鋭い痛みがそれを麻痺させた。
「うるさいわね!」
平手打ちをした挙げ句、ケイコが怒号を上げる。
一瞬、ナディアは自分の中であってはならない感情が起こるのを感じた。
それは憤りである。守られるべき立場の少女に対してそんな劣情を抱くことは、少なくともナディアは許せない。
自分が許せなくなる前に彼女はそれを振り払って、真っ青になって俯いているケイコを見やった。
「いや・・・なんで・・・?」
ひたすら疑問の言葉を吐き出すケイコをナディアは気の毒だと思う。その気持ちに偽りはない。
それと同時に、今の段階では自分には何もすることができないことを知った。
できるだけ音を立てないように気をつけながら、彼女は立ち上がった。
頭が混乱している者は他からの干渉を極端に嫌うことが多いのだ。
あえて言葉もかけないでナディアは部屋を出た。
ドアを開けるとすぐにユリシーズが視界に入ってきた。
「彼女は?」
ナディアがドアを閉じるのを確認してからユリシーズは尋ねた。
それに対して返ってきた答えは、首を左右に振るというものだった。
「とても話ができる状態じゃないわ。ひどく混乱しているみたい・・・」
「しかし、素性は聞き出さねばなるまい」
ドハルは狡猾な顔を微かに見せた。この老人は時々そういう面を覗かせる。
ユリシーズでも底が知れぬほど、この老人には不気味な存在感があった。
これまでの行動を見ている限り敵と言うことはできないが、完全に味方であると言えるかと問われれば即答はできない。
普段は話していて面白い人物だが、稀に見せる冷酷残忍な表情がユリシーズは気になるのだ。
「関係ないだろう。私はあの娘を助けたい」
「スパイという可能性も捨てきれんぞ?」
そう言われるとユリシーズは言葉に詰まってしまう。以前にも、一度と限らず助けた人間に襲われたことがあるのだ。
だが、天才的な頭脳を持つ割にユリシーズはあまり計算高くはなく、頑固な面がある。
「私が責任を取る」
「そう言うと思っとったよ」
ドハルは小さく声を立てて笑った。
非常にユリシーズらしい。
「ナディア、すまないがあの娘を見ていてくれるか?」
「ええ」
「ありがとう」
ナディアに一つ笑顔を見せてから、ユリシーズは通路を歩みだした。運の悪いことに今日は大仕事があり、彼はそれを指揮監督しなければならないのだ。
あの少女のことを心配しながらではなかなか骨の折れる仕事だ。
ユリシーズがいなくなった後で、ドハルは大きな溜め息を漏らした。
ナディアの表情も晴れない。
「相も変わらず脳天気だな、あの男は」
「ユリシーズのことを悪く言わないで」
少しムキになってナディアは強く言った。
正直言って彼女はこの老人が嫌いだ。
日頃常にそういう感情を抱いているわけではないものの、ドハルが見せる冷徹な表情が許せないのである。
本人に言わせれば、徹底した合理主義を貫いているということになるが、他から見ればそれは時に異常ささえ帯びて見える。
味方であれ、成功のためなら犠牲とすることを躊躇わないのだ。
ただ、その辺りが失敗をしてでも犠牲を出すまいとするユリシーズと調和が取れているのかも知れない。
「惚れた男の悪口は聞くに堪えないかの?」
ドハルが老人でなければ、もしかするとナディアは平手打ちをしたかも知れない。本人がいない時に陰口を叩く人間が彼女は大嫌いだ。
無言でいるナディアに対して、老人は今一度、疲れを吐き出すように溜め息を漏らして見せた。
立派、というより放ったらかしにしてある頭髪はまだ掻きあげることができ、実年齢よりも十歳は若く見える老人には、いささか似合わない仕草ではあった。
しかし、外見とは違って、ドハルは自ら棺おけに片足を突っ込んでいるかのように振る舞うので、ナディアには違和感がない。
慣れ、だ。
「まあよいて。とにかく、おまえはあの娘を見ておれ。うちには女に飢えた男もおるからの」
「あなたは?」
「ワシの仕事はユリシーズに助言をすることじゃからな」
嫌な笑い声を残してドハルはその場を去っていった。
心なしか彼は自分だけにはきつく当たっているような気がする。
そう思いながら、ナディアはその場に座り込んで自分の両足を抱きかかえた。
しばらく時間をおいてから、もう一度ケイコに声をかけよう。
こうやって一人でいる機会は割りと多い。
だが、好きにはなれなかった。
「今日はおまえたちに少しがんばってもらうぞ」
馬の身体を洗ってやりながらユリシーズはそう語りかけた。
数は五頭で、その内四頭が馬車を引く馬で、一頭が先行して偵察をするものだ。
ユリシーズはこんなことをする立場にない人間だが、訓練をやって時間が余った時は自分でやってしまう。そういう男なのである。
重たい剣を壁に立てかけて、壊れかけのブラシで擦ってやると馬は心地よさげに声を立てる。まさにかゆいところに手が届くと言ったところだろう。
ユリシーズは自然とそれぞれの馬が一番擦って欲しい箇所を把握してしまっていた。
「のぅ、ユリシーズ」
馬車の点検を済ませてきたドハルが馬小屋にやってきた。
「第三支部の連中から連絡じゃ」
そう言ってドハルは手に持っていた便箋をユリシーズに見せた。
くしゃくしゃになっているのは、伝書鳩の足に巻かれていたからだ。それが、今のところ最も有効な通信手段である。
ユリシーズはブラシをバケツの中に放って、老人からそれを受け取った。慣れた手つきでそれを開いて目を通す。
「・・・フランクリアへの進路を変更する必要がありそうだな」
「どういうことじゃ?」
「進路上の町で、山賊の討伐に軍が動いているらしい」
ユリシーズは近くのイスに腰を下ろして、読み終わった手紙を細かく破り始めた。
こういうものは残しておくと後々になって思わぬ落とし穴になることがある。
更に、慎重に散り散りになった紙クズを混ぜて、その内の半分を地面に落とし、残りの半分を腰の巾着袋に入れる。どうせ何も入ってない財布だ。
これで紙が回収されても内容が把握されることはない。
壁に預けていた剣を手に取るユリシーズに、曲がってもいない腰を叩きながら老人は言ってくる。
「となると、南に迂回することになるのかの」
「それが一番安全だな」
ちょうどここから真北の方角にデリッツ王国の首都がある。可能な限りそれから離れて行動するのが望ましい。
欲を言うともっと情報を得てから決めたいところだが、生憎とそんな余裕はない。
この建物もすでに居座って三日になるから、そろそろ軍に勘付かれても不思議ではないのだ。
皆をもう少し休ませてやりたいが仕方のないことだ。
「最近は物騒じゃからのぅ。ワシらも山賊には気を付けねばな」
「そうだな」
その辺りの情報も一応調べてはいるのだが、ただでさえ身を隠しながら活動をしている山賊たちに関するものが正確なはずがない。
だから、移動中は常に周囲に気を配っていないといけないし、身体を鍛える訓練も怠るわけにはいかない。
ユリシーズは常人より遥かに多いトレーニングをこなすが、他の者もそれなりのことはやっているのだ。
「一つ、聞いてもよいかの」
する方としては、毎度の問いに溜め息が付加されるのが最近では普通だった。
「何だ?」
「あの娘をどうするつもりじゃ?」
硬い革のジャケットを着て背中に剣を固定するユリシーズを見ながら、ドハルは凄んだ声で尋ねた。
あえて自分の意見を言おうとは思わない。言えばまたユリシーズと口論になることは間違いないからだ。
それに、自分でしたことに責任を持つなら何をしても構わない、というのがこの老人の考え方である。
「特に問題がなければ、一緒に連れて行きたいと思っている。見たところ外国人のようだし・・・落ち着くまでは守ってやりたい」
「ワシは構わんよ。あとはラルゴが納得するかどうかだな」
ドハルが口にした名に一瞬だけユリシーズは目を細めた。
ラルゴは元山賊と言うだけあって、仲間内の中で最も気性が荒く腕っ節もなかなかの大男だ。
おまけに我が強いため、いつも最後までユリシーズたちが決めた方針に文句をつける。
結局は従ってくれるのだが、納得させるのはなかなか骨が折れる仕事だ。
「納得させてみせるさ。あの娘のためにも・・・」
誤解してくれと言っているような口ぶりだ。
「ナディアが聞いたら何と言うかの」
「止してくれ。私たちは何でもないのだ」
「周りの人間はそうは思っとらんよ」
困ったように溜め息を漏らすユリシーズを見て、ドハルは笑い声を立てた。
真実はどうだかわからないが、少なくともこの老人は若い二人が恋人の関係にあると本気で思い込んでいる。
わざとそうしているのだ。
理由は、そちらの方が楽しいからである。
更に言わせてもらえば、悪いのはユリシーズとナディアの方なのだ。
彼らは皆の前でも気にせず、ほとんどの時間を共に過ごしていて、いつも一緒に行動をしている。
会話をするにしても笑顔を浮かべて楽しそうに話しているので、誤解するなと言う方が無理だ、というドハルの言い分である。
「羨ましい限りじゃ。ワシもあんな美しい女子と仲良くなりたいわい」
「そんなことを言っている時じゃないだろう」
「そいつはおまえさんだけじゃ。いつの世も男女間の愛憎は不滅じゃよ」
「あなたが煽っているのではないか?」
「一理あるの」
笑みを浮かべつつ、淡々と答えるドハル。
いつも緊張感のない老人らしいが、いささか不謹慎である。だが、そう言わせないのがドハルの憎らしいところだ。
こと皆で動くとなると、彼はいつも脳の役割を担っているし、ユリシーズが不在の時には戦場における指揮官をも代行することもできる。
人格はともかく能力、特に頭脳においてはずば抜けて秀でたものを持っている男なのである。
逆を言えば、それがないとただのうるさい爺さんだ。
ユリシーズは溜め息を漏らしつつ馬小屋を出た。
小屋と言っても雨風をある程度凌ぐためだけのものだから出入り口などない。扉などという立派なものは付いておらず、言ってしまえば、ただの風除けに過ぎない。
「しかし、ちょいと真面目に言うがの。こういう時だからこそ、愛する者の存在は大切ではないか?特に戦士には・・・前に進むばかりで守るものを背負わぬ者は早死にをする」
「・・・そうだな」
実体験もあって、ユリシーズは思わず頷いていた。
彼がいつも皆に唱えていることだが、戦争において最も戦士が意識しなければならないのは生き残ることである。
死んでしまえば、たとえ友軍が勝利しても一人の戦士としては負けなのだ。
それに実際彼が見てきた中でも恋人、特に家族がいる者の生還率はただ目的だけを見据える若者より格段に高い。
「本当にわかっておるのか?おぬしにも言えることじゃぞ」
ドハルは、ユリシーズがこれまでどれだけ無理をしてきたのかを見てきている。
それも無謀としか思えないようなことだ。彼自身が考える理想の戦士には有り得ない行為である。
「わかっている。皆のためにも・・・私は果てるわけにはいかない」
「・・・それなら、良いが」
疲れたように老人は肩をすくめて見せた。言うことを聞かない息子を持った父親のようである。
話が一段落したところで、ユリシーズは不意に歩き出した。
一歩進む度に背中の大剣が重たい音を立てて揺れる。手にしたことのある者にしかわからぬ重量だ。成人男性でも、持ち上げるだけでやっとの代物である。
「一応聞いておく。何をするつもりじゃ?」
「皆が起きるまで訓練をしておく。空いている時間は有効に使いたい」
「休養も有意義だと思うがのぅ・・・」
その呟きを、果たしてユリシーズは聞いただろうか。
ナディアは、何輪かの花を挿してある花瓶を持って歩いていた。
もうすぐ着くが、当然向かっている場所は例のカザキケイコと言う少女が眠っている医務室だ。
同じ女性であるから、それで多少心が和むだろうという気遣いである。
女にも花があまり好きではない人もいるが、さすがに不愉快に思う娘はいないだろう。
それに、ナディアは今日ここを出発しなければならないことを知っているから、可能な限り早くケイコを落ち着かせたいのだ。
ユリシーズなら必ずケイコを保護すると言い出すに違いないので、皆に遅れないよう彼女に準備をしてもらわなければならない。
時には一分一秒によって生死が分けられることもある世の中だから、時間厳守は生きていく上で最低限必要な心得である。
やがてドアの前まで来ると、一度足を止めてノックをしてみる。
「入っていいかしら?」
返事はない。
こういう時は入ってもよいということだ。嫌ならそう言うはずである。
というように勝手に解釈をしてナディアはドアを開けた。
直後に視界に映ったケイコは、見た目の上では幾分落ち着いたようだった。
頭を抱えていないし、表情も苦悶しているようには見えない。
かと言って穏やかと言うと、そうでもない。
無表情としか言えない顔をしている。
それでも先ほどよりは事態が好転したらしいことにナディアに安心して息を吐き出し、花瓶を持ってケイコのベッドの方に移動をした。
少女を見て一瞬綺麗だと思ってしまったことが、僅かにショックだった。
「少しは落ち着いた?」
口調に気をつけながら言って、ナディアは花瓶をケイコの近くで開け放たれている窓の縁に置いた。
花がそっと揺れ、ふと頬を撫でた朝の風が心地よかった。
彼女はそのままケイコに振り返り、笑顔を見せる。
愛想笑いにならぬように努めた。
「・・・あなた、どこの国の人なの?」
ユリシーズとは違ってナディアはケイコに対して「部外者」という印象を強く持っている。
確かに心配する気持ちは同じだが、重さが違うのだ。
ナディアは全く知らない他人よりもよく知った仲間たちを心配する。そのためにもケイコの素性は知っておく必要があった。
しかしケイコは答えようとしない。
そう簡単にいくわけはないか。
自分が相手の立場になったことを考えると、ナディアは苦笑をしてしまった。
向こうもいきなり見知らぬ人間たちに囲まれている中で、そう易々と自分の正体を明かせるはずがないのだ。
互いに目の前にいる人間が敵か味方かを吟味するのは、仕方のないことであろう。
「安心して話してくれていいのよ。私たちはあなたの味方だから」
「・・・うるさいわね」
舌打ちするのと同時に、ケイコはかろうじて聞き取れる小声で言った。
聞こえないように言ったのではない。声を出す労力を惜しんだのだ。
「なに?」
あえて聞こえない振りをするナディア。
それが彼女には気に入らなかったようだ。
「うるさいって言ったのよ」
ケイコは、今度ははっきりと言ってやった。視線は窓の外に向けられたままだ。
見るのも虫唾が走るということなのだろうか。
判断をしかねたナディアはとりあえず声を発することにした。根拠はないが、雰囲気的に沈黙するのはまずいと思った。
「そうね、ごめんなさい。気が付いたばかりなのに、図々しい質問をして」
「わかっているなら、初めからしないことね」
これ以上ないくらいにケイコは言ってくれる。
さすがのナディアも、彼女が自分に嫌悪感を抱いていることに気付かぬわけにはいかなかった。
「・・・何か失礼なことをしたなら、謝るわ」
自分でもかなり温厚な方だと自負しているだけあって、ナディアはカッとなってとんでもないことを口走るようなことはしなかった。
この少女は大変な目に遭っているのだ。
そう自分に言い聞かせることで平常心を保っていた。
ただ実際は、ナディアが自身で思っているよりずっと短気であることを、多分ユリシーズもドハルも知っているだろう。
「だったら、独りにして。うざったいのよ、あんた」
「ごめんなさい。でもね・・・」
「出てけって言ってんのよ!」
とうとうケイコは怒号を上げた。
まるで美しいソプラノが狂気を演じたかのような声だった。
暗く冷たい、それでいて激しいものが感じられた。
ナディアはもうその場にいたくなかった。
言われなくてもそうしてやる。
唇を閉じたままそう言った。
「・・・わかったわ」
今度ばかりは声に感情が伝わってしまうが、気がつくことなくナディアはさっさと部屋を出て行った。
それを見届けてから、ケイコは花瓶の花に視線を移した。
表情が変わることはない。残念ながら彼女は花を見て微笑んでしまうような心の持ち主ではないのだ。
「・・・邪魔ね」
自分でもどうしてそう言うのか、そう感じるのかわからない。
ただ本能が訴えていた。
そして、ケイコはそれに逆らうことなく従った。
さっきまで自分が頭を静めていたやわらかい枕を取り上げ、思い切り花瓶に投げつける。
思ったより音は地味だった。
中空にいくつか水滴を撒き散らしながら、花瓶は床ではじけた。
薄汚れたベージュ色の花びらが散らばった。
桃色の花は力なく、水分を含んで変色してゆく床の上に投げ出された。
それらを全て見てから、ケイコは溜め息を漏らして窓の外に目をやった。
天気は悪くはない。
だがそれ以上には思えなかった。
晴れ。
それだけの意味しか見出せない。
空っぽだった。
自分が歩んできた道、生まれた場所、育ててくれた人。
今までにどれくらい笑って、泣いたのか。
何もわからなかった。
本当にそんなものが存在したかどうかもわからない。
はっきりしているのは自分が確かにここに存在しているという事実だけだ。
在るだけ。
いくら探しても、何も見つからない。
しかしそれを探している自分がいる。
コギト・エルゴ・スム。
それだけが真実だった。
不思議と不安はなかった。
悲しくもないし、涙も流れない。
空虚さとでも言うのだろうか。
そんなものだけが、他のどれとも混同せずに残されていた。
取り残され、忘れられた、空っぽの小さな箱。
今の自分はまさにそれだった。
「広いな・・・」
独りには広すぎる部屋だった。
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