英雄戦記
〜千年の時を越えて〜

第一章
『Dive into the history』

第一幕
「ある日の放課後の出来事」




 退屈な授業がようやく終わってくれる。三年生の嘉崎恵子は得意教科でもある世界史の授業を怠惰に受けながらそう思っていた。
 彼女が在籍する高等学校は、毎年そのほとんどが一流大学に入学しているエリート校として、全国にその名を知られていた。授業料がやたらと高い私立であり、学校でやっている学習内容も高度なものだ。
 しかし、恵子にしてみればそれでも物足りない。常に学年でトップの成績を誇る彼女には、毎日こうして学校でわかりきったことを教えられる必要はどこにもないのである。
 早く卒業したい。
 恵子が願うのはそれだけだった。かと言って、その先にあるだろう大学生活に希望を抱いているわけでもなかった。
 今の社会に生まれてしまった以上、どこに行っても結局は「退屈」の二文字に帰す。毎日が同じことの繰り返しだ。何の刺激もありはしない。
 少しでもそれを紛らわすために、彼女は裕福な両親を言いくるめてよく一人で海外旅行にも出掛けたりしたが、すぐに飽きてしまった。わかったことは、世界中どこに行ってもこの社会の性質が変わるようなことはないということだけだった。
 恵子は絶望していた。まだ18歳という若さの彼女には、あと何十年もこの生活をしなければならないと考えれば考えるほど、自殺願望が育っていった。こんな世界で生きて何の価値があるのか、恵子にはわからなくなっていた。
 いつもそんなことを考えているせいか、どうしても同年代の若者と気が合わず、友と呼べる人間は数えるほどしかいない。恋人など以ての外だ。
 恵子の理想の男性は、この世界史の教科書の中にいた。
 西暦1089年、つまり今から約千年ほど遡った時代の、時の人。
 ユリシーズ=アルファイス。
 国家から正式に英雄の称号を与えられた男で、恵子が思うに後にも先にも彼以上の偉人は歴史上に存在し得ない。彼の残した最大の功績は、何と言ってもそれまで当然のように存在していた奴隷制度を否定、打破したということだった。遅いところでは18世紀、あるいは19世紀になるまで廃止されることがなかったその身分を、彼は上流貴族の出身でありながら、11世紀にすでにそれを廃止すべく活動していたのだ。それによって一度は完全に廃止された奴隷制度は、しかし数十年後に再び、道を踏み外した指導者の手によって復活している。しかしながら、短い期間とは言えそれまでは常識だった概念を覆したという功績は大きく、後の世にも大きく影響を与えたはずである。
 教科書に詳細は記載されていないが、自分で図書館に赴き、彼のいた時代について研究をしている恵子には学者顔負けの知識があった。
 実のところ、奴隷解放のきっかけとなった革命そのものにユリシーズ=アルファイスは参加していない。革命の一年前に死んでいるのだ。
 彼の周囲にいた者たちが、彼の遺志を受け継いで蜂起したのである。
 その結果、11世紀細大の奴隷国家であったデリッツ王国のアスターナ王朝は滅んだ。
 そんな風に、死後もなお、全軍勢十万人を超える勢力を打ち倒すほどの革命を引き起こす引き金と成り得たユリシーズ=アルファイスという男に、恵子は素直に興味を抱いていた。
 会ってみたい。
 本気でそう思うようになってからもう数年が経つ。
 だが、せめて彼に似た者と言っても、今の世の中では考えられないような相手である。
 政治家たちが汚職事件で逮捕され、落ち込んだ経済も十数年前から未だに回復の兆しが見えない。少年少女が次々と事件を起こし、甘い刑罰を受けた後、社会に戻ってきて再び罪を犯す。
 大人になりきっていない大人で溢れたこの世界で、ユリシーズのような存在を求めること自体が間違っているのだ。
 彼はそのたった28年という生涯を一秒たちとも無駄にはしなかった。恵子は勝手にそう考えていた。そうでなければあの大国を打ち倒せるだけの人々の心を動かせるはずがない。ユリシーズは、死してもなお同志たちの心の拠り所となっていたのだ。
 指導者となって数々の偉業を成し遂げた人物なら恵子は少なくとも十人は挙げられるが、死してもなお人々の心に働きかけ、行動を起こさせる人物はそうはいない。
 ジーザス=クライスト、つまりイエス=キリストくらいだろう。
 さすがにそこまではいかないにしても、ユリシーズは最低でも死後百年くらいはその救世主と同等の影響力を持っていたに違いない。
「ここはテストに出すからな」
 何となく聞いているはずの教師の言葉だが、しかし恵子はしっかりとチェックしていた。もう癖になっている行為である。
 最初はいい大学に入りたくて猛勉強をしていた彼女ではあったが、最近ではむしろ勉強量は減少していた。大層な肩書きを持つことの価値を見失ってしまったのだ。
 それでもトップの座から崩れ落ちないのは、これまでの蓄積と生来の才能のせいであろう。
 昔はともかく、今となっては学年一位の座など恵子にはどうでも良いのだ。
 やがて、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。号令を済ませてから、恵子は早々に帰る支度をする。周囲の生徒のようにガヤガヤと無駄話をする気には到底なれない。
「ね、恵子」
 不意に肩を叩かれて、恵子は振り返った。すぐに、友人の田中瑞穂の笑顔が目に入る。
 髪の毛を茶色に染めてピアスもしている瑞穂は、一見すると何も考えていない劣等生に見えるが、本質はもっと別のところにある。恵子も初めは偏見を持っていたが、一度彼女と喧嘩をしたときにそうではないとわかった。
 誰かれ構わず友達にしてしまう底なしに明るい彼女は、無口で無愛想な恵子にもよく声をかけていた。それがうざったくて「もう構わないで欲しい」と恵子が言ったことから、じょじょに話がずれてゆき、最終的には取っ組み合いの喧嘩になったのである。
 生まれて初めてのことだった。
 あの事件がきっかけで今ではこうして親友と呼べる間柄になっている。まるで一世紀前の男同士の友情のようだった。
「今日どっか遊びに行かない?」
 いつものように瑞穂は言ってくる。もう受験も近いというのに、随分と余裕がある
 というのも、瑞穂が学年の成績で常に上位にいることを考えれば当然と言える。人を外見で判断してはいけない、という言葉は瑞穂のためにあると恵子は思い込んでいた。
 逆に恵子は見るからに大人しそうだが、かなり自己中心的でドライな性格である。顔だけは他校生の間で噂になるほどの美少女なのだが、彼女を知る男子生徒に言わせるとその他の全ての欠点が唯一の長所である美貌を台無しにしてしまっているのだそうだ。
 誰に愛を告白されても、例外なく相手を粉砕し続けているので、校内の男子の間ではそんな噂が広がっていた。
 恵子も自分の性格の悪さはわかっているが、それを直そうとしないのが瑞穂に言わせると「恵子らしい」ということになるらしい。
「嫌よ」
「まぁたまた〜。あんまり家にこもってると根暗になるわよ?」
 瑞穂は相変わらずの恵子に笑ってみせる。実のところ、恵子は学校が終わると家に直行して、好きな海外アーティストの音楽CDを聞きながら、ユリシーズ=アルファイスに関するレポートを書くのが日課だった。自分で可能な限り調べて、それをわかりやすいようにまとめているのだ。
 無論、授業で出された課題ではない。意味はないし、誰に見せるものでもないが、恵子にはそれが楽しいのだ。
 瑞穂に心配されなくとも、すでに立派な根暗である。
「イヤったらイヤ」
「行くったら行く」
「・・・」
 恵子は大きな溜め息を漏らした。そして、ノートを鞄に放り込みながら言ってやる。 「わかったわよ。でも早めに帰るからね!」
「じゃ、決まりね〜」
 またいつものパターンである。こういう場合、恵子はたいてい結局深夜まで瑞穂に付き合わされるのだ。
 両親とは同居しているが、高校に入った時から彼女はほとんど自立しているから、多少の小言はあるが本格的に説教をされるようなことはない。と言うよりは、共働きでほとんど家にいないような両親に叱られる覚えなどない。
 金銭面は、両親が勝手に渡してくれるお金を自分でやりくりして、家事一般もこなす。恵子は同年代の少女に比べて、断然と生活能力があることを誇りにしていた。実際に一人一人に聞いて確かめたわけではないが、自分でもこの年でここまで社会に適応している人間はいないのではないかと思うのだ。それも、彼女が社会に絶望している理由の一つだ。
 何でもそうだが、わからないからこその魅力というものがあるのだ。
 初めて銀行からお金を下ろすときなどは恵子も期待と不安を抱いたものだが、最近は全くそういうことはない。海外旅行も一人で行って無事に帰ってくる女子高生だから、国内では本当に怖いものなどないのだ。唯一あるとすれば、それはこの瑞穂に酒を飲まされることだろうか。
 かつて一度だけ経験があるのだが、恵子はアルコールが入ると服を脱ぎたくなる性質なのだ。多分、身体が火照って暑くなるのだろう。カラオケボックスで上半身下着姿になってしまって以来、彼女は徹底的にアルコールとは無縁の生活を送っている。未成年なので本来なら何もしなくともアルコールとは無縁なのだが。
「で、どこに行くわけ?」
「さあ」
 瑞穂は肩をすくめた。自分で誘っておきながら、無責任なことだ。
 しかし、いつものことなので恵子は一つ溜め息を漏らしただけだ。
 考えおくということを恵子に伝えてから、瑞穂も席に戻る。
 早速と担任の教室がやってきた。
 また担任が下らない話を始めるのを聞きながら、一体どこに連れていかれるのか恵子は考える。
 特別嫌いな場所というのは、人が多い所だけで、それ以外は案外大丈夫であった。カラオケボックスが最も代表的で、ある程度しっかりとプライバシーが守られている場所ならば恵子はどこでも構わない。細かいことを言えば、人気の飲食店などは、何となく自分たちが多くの人間の視線に晒されているような気がして、大嫌いだ。瑞穂もその辺はわかってくれているので、何だかんだ言っても恵子も安心してスケジュールを任せることができる。
「起立」
 不意に聞こえた声と同時に、周囲にいた生徒たちが一斉に立ち上がった。
 恵子は少し遅れてそれに続く。どうやら、今日の担任の話は短かったらしい。
「礼」
 馬鹿馬鹿しいとしか思えない号令を済ませた後、生徒たちが半日以上続いた退屈な時間の鬱憤を晴らすように雑談を始める。
 これも余計なことだが、恵子が思うに十分な成績を残している者だけが学校の授業をを退屈だと思えばいいのだ。優秀な者だからこそ、そう言うことが許されるのである。学校の定期テストですら満足な結果が残せない者が、授業を軽く見るなど笑止千万も甚だしい。
 そんな考えだから周囲から疎まれるとわかっていても、恵子には信条を曲げるつもりはない。そういう性格なのだ。
「さってと、行こっか」
 ショルダーバックを肩に背負いながら、瑞穂が今一度恵子の肩を叩いてきた。
 以前言われたことがあるのだが、彼女からすると恵子は一つ一つの動作が遅いらしい。帰り支度にしても、普通に歩くにしても、若者らしい元気がないそうだ。生きているだけでそれほど疲れを感じる女子高生は彼女くらいのものだろう。
 二人は教室を出て、放課後を迎えた廊下を寄り道もせずに生徒玄関へと向かって歩いていった。
 瑞穂は同じ学校や他校に渡って、自分でも数えられないほどの友人がいるが、恵子といる時間は可能な限り他の友達との接触をしないようにしていた。だから、途中で友達に会っても「じゃあね」と軽く挨拶をするだけにとどめている。  理由は単純で、恵子が嫌がるからである。外見に似合わずそういう気遣いができるから、瑞穂は友人が多いのだろうと恵子は思う。自分とは違って彼女は他人に合わせるという芸当を身に付けているのだ。
「とりあえず、ミズリーに行こうよ」
「そうね」
 乗り気ではなさそうに答えて、恵子は指定の上履きから自分の靴に取り替えた。
 早速と部活に取り掛かる一年生たちを見ながら、二人は正門を出る。
 「ミズリー」と言うのは彼女らの行きつけの喫茶店である。数世紀前を思わせる古い様式で、通な客しか来ず、とても静かで大人しい雰囲気が漂う素敵な店だ。地下にあるので窓がないところもよい。絶対に人には薦めないが、恵子はミズリーだけは心の底から気に入っていた。
「ねえ」
「何よ?」
 いちいち高圧的な口調になってしまう恵子であったが、慣れている瑞穂にとってそれを流すことは造作もないことである。
「彼氏、欲しくない?」
「・・・また?」
 呆れたように恵子が目を細めるのにはわけがあった。瑞穂は過去に勝手に男友達に「恵子とデートさせる」という約束をしてしまったことがあり、彼女はそれでひどい目に遭った。
 簡単に言えば、襲われそうになって相手を張り倒してしまったのだ。
 こうしてたった一行で説明できるようなことだが、あの時恵子が感じた不快感は表現のしようがない。恐怖ではなくまず腹が立ったところがまずい。恵子は我ながらそう思った。
 多分相手が女子供だけに強いタイプだったせいもあろうが、この度胸は何とかならないものかと考えてみたりもする。
 はっきり言って可愛げがない。恋人ができないことに関して、自分で納得してしまえるのが嫌だった。
「そういうんじゃないけどさ・・・ほら、あたしフラれたばっかじゃない。だから、すごく寂しくて・・・恵子は平気なの?」
「寂しいとは思わないけど、独りだと退屈なのは確かね」
 それも怪しいものだが、親友のために恵子は言った。瑞穂は先月、付き合っていた彼氏にフラれてしまっていたので、気を遣ったのである。最近、極端に彼女が恵子に付きまとってくるのはそれが原因だ。
「そっか・・・いいなぁ、恵子は。芯が強くって」
「そうかしら?」
「うん。あたしは全然ダメだから、よくわかるんだ。学校とかで底抜けに明るいのも、独りでいるのが嫌だから半分以上意識してるだけだし」
 こういうことを言っては失礼だが、瑞穂は情緒不安定な時期に入ると必ずこの話をする。今回で三度目だ。過去の二度は、その別れた彼氏が家族旅行で遠くに行った時と、全国総合模試で崩壊的に成績が下がったときである。
「・・・はぁ」
 わざとらしく肩を落として瑞穂は溜め息を漏らしてみせる。
「止めてよ。こっちまで滅入ってくるわ」
「恵子でもそんなことあるの?」
「あるわよ。悪い?」
「別に。ただ、あんまりそういうイメージないじゃない、恵子って」
「あなただってそうでしょ?」
 恵子に言われて、瑞穂はキョトンとした。予め計算していたわけではないだろうが、見事な返し方だった。同時に素直ではないなとも思った。
 瑞穂は改めて恵子の隠された優しさを実感しつつ、少し天邪鬼な遠回りの言い方がおかしくて笑い声を堪えることができなかった。
「やっぱそうね。よし、止めた」
 意識してだろうが、瑞穂はいつもの笑顔を取り戻した。
 彼女は惚れっぽい性格だから、無理をせずとも心から笑える日も近いだろう。
 恵子はそう確信していた。
 ただ、惚れやすくはあるが瑞穂は決して浮気性ではない。言うなれば、熱しやすく冷めにくいという、非常に珍しい女の子なのだ。
「ねえ、恵子」
 少し早めに足を運びながら、瑞穂は言ってきた。
「今度、世界史教えてよね」
「それはいいけど」
 見かけからは想像がつかないが、瑞穂はこう見えて典型的な理系であった。数学のテストだけでは常にトップであり、恵子ですら彼女に勝ったことがない。ただ、彼女はその数学と物理以外、つまり文系教科のほとんどが致命傷となって、総合成績では恵子に遠く及ばないのだ。
 逆に恵子は文系教科全てで常にトップで、理系教科では必ずしも一位ではないが限りなくそれに近い成績を納めている。
「あなたも少しは受験を意識するようになってきた?」
「そうでもないけど、全く意識してないわけじゃないわよ。あと四ヶ月だから、多少の準備は必要だと思って」
「殊勝な心がけね」
「まぁ〜ね」
 締まらない間延びした声で瑞穂は笑って見せた。
 そこまで話したところで、二人は足を止めた。信号が赤だったからである。
 横断歩道が赤になると、成人で言う膝と腰の高さにある二本のストッパーがシステムガードレールから伸びてきて、意識的にしようとしない限り信号無視はできないようになっている。これは市民の安全はもちろんだが、警察が交通事故の調査をし易くなるというもう一つの大きな利点があった。極端に言えば、横断歩道上での人身事故は全て歩行者に非があることになるからである。
 もちろん、例外はたくさんあるが。
「あ〜あ、入試なんかなくしちゃえばいいのになぁ」
 瑞穂は受験生の九割以上が一度は言う台詞を吐いた。
 だが、その隣にいる恵子はそうは言わないし、思わなかった。逆に自分が学生を選抜する立場に立った場合、より優秀な者を選びたいと願うのは当然だからである。入る側としても無能な連中と学びたくない。現代社会を嫌悪していながらも、恵子は自分では気付いていないがエリート思考の塊であった。
「国が決めたことなんだから、仕方ないでしょ。それに、あるとわかっているものに備えておかない方が悪いのよ」
「・・・クールねぇ」
 恵子らしいとは思うが、瑞穂は親友のこういうところが好きではない。
 思わず二度目の溜め息を漏らしてしまう瑞穂。
 その時だった。
 不意に後方で甲高い破壊音が鳴り響いた。ガラスが派手に割れる音である。
 反射的に二人は半身を返して後方を睨みつけた。
 すぐに、路上に倒れているパイプイスと建物から飛び出してくる黒ずくめの男が目に入る。手に持っているボストンバックもそうだが、何より状況から考えて強盗だとわかった。だが、高そうな背広を着て髪型もきちんと整えているので、片方の手に刃渡り30センチのナイフを持っていなければとても強盗だとは思えない。
 そう言えば、最近そういった類の事件が続発しているというニュースを恵子は思い出した。その強盗はいつも紳士風のスーツ姿をしながら唐突に強盗に姿を変えるために、ほとんどの人が顔を記憶できておらず、手掛かりもあまりないという話だった。確かにあからさまに顔を隠されるよりも、堂々と普通の格好をされた方が案外特徴を掴み難い。うまく人間の盲点を突いていると言えるだろう。ただ、何度も同じ手を使っては、さすがにバレるに決まっているが。
「どけっ!」
 強盗犯は近くにいた中年女性を突き飛ばし、恵子たちに向かって猛然と駆け出してきた。
 自分たちを襲うつもりはなかろうが、明らかに進路上に障害物として立っていることは間違いがない。
「ちょ、ちょっと・・・!」
 瑞穂は青ざめながらも、相手の死角に入るように建物の角に移動する。
 だが、恵子にはそれができなかった。足が動かないのだ。
 不思議なものである。恐怖かどうかは自分でもわからなかったが、その瞬間に脳の命令系統が麻痺した。
 まだ若いのか強盗犯はなかなか体力があるようで、みるみる内に恵子に近づいてくる。どうやら道路を横切って真っ直ぐ逃げるつもりらしい。
「どけろ!」
 男は叫ぶ。
「け、恵子、何してんのよ!」
 先に逃げた瑞穂が手を差し伸べてくれる。
 声も出せずにいる恵子はそれを握ろうと手を伸ばしたが、動作が遅かった。
「ちっ!」
 苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをし、強盗犯はついに恵子に手を伸ばした。
 その一瞬が恵子の目にはスローに映った。
 ナイフの鈍重な輝きが自分に向かってきている。そして次の瞬間、自分の身体に強かな衝撃が伝わるのがわかった。
 助かったと思った。
 男は血を見るのをためらったようにナイフを引っ込めて、恵子の腹を蹴り飛ばしたのだ。成人男性の蹴りは、よほど脆弱な者でない限り、まだ大人になりきれていない少女には凄まじいものだ。
 彼女の身体は勢いよくストッパーに衝突し、そのままバーを破壊して車道に投げ出された。
「うぐっ・・・!」
 恵子は更に左腕を踏みつけられ、その痛みに歯を食いしばった。
 強盗犯は反対側のストッパーを飛び越えて逃走を続ける。
「恵子っ!」
 瑞穂がガードレール越しに駆け寄ってきた。
 その声に反応して恵子は目を見開く。
 ひどい痛みが全身を襲っていた。僅かだが目が霞む。
 何て日だ。
 彼女はまずそう思った。
 後から、急速に怒りが込み上げてくる。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
「信じらんない・・・!」
 もう姿が見えない強盗犯に対する罵声すら上げられずに恵子は身体を起こした。
 生まれて初めて味わう苦痛だ。
「っつつ・・・」
 時間差で襲いかかってきた激しい頭痛に恵子は頭を抱えた。
 本当にこの世界から逃げ出したい気分になっていた。強盗犯は元より、今の世界全てに対して憎しみが湧いてきてしまう。
 いい加減にしろ、と怒鳴ってやりたかった。だが、悪いことは更に続く。
「ちょ、何してんのよ!恵子、早く・・・!」
 瑞穂の声は裏返っていた。
 親友があまりに動転しているので、恵子は激痛に耐えながら何とか目を開いて、周囲を見渡した。
 その視線が固定されるのには数秒とかからなかった。
 ほぼ同時に耳障りなクラクションが鼓膜に突き刺さり、ゴムが焼ける臭いが微かに鼻を掠める。彼女の視界を覆ったのは運送業者のトラックだった。
「嘘・・・」
 恵子の記憶はそこで途絶えた。









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