幸運のダイス

第四幕
「罠」




 次の日、窓から差し込む朝陽の眩しさに目を覚ましたダイスは、フランクがまだイビキをかいて眠っているのを横目で見てから、洗面所へと向かった。
 トイレとシャワーバスが同じ部屋にあるその場所で、顔を洗い、タオルで拭く。
 さながら安いホテルの一室のようだ。
 おそらく、酒場で酔い潰れた客を泊まらせるための配慮なのであろう。
 彼は寝惚けを十分に取ってから、部屋を出て店へ降りた。
 起きたばかりで、何か飲み物が欲しかったのだ。
 階段を降り、カウンター側に設置されているはずのドアを開けると、すぐに店の掃除をしているレイチェルの姿が飛び込んできた。
 朝も早くから。
 感心をしていると、向こうがダイスに気が付いて、声をかけてきた。
 バンダナで髪をまとめ、ドミナンテから支給された衣装ではなく、少しみすぼらしい感じのする私服が、また妙に似合っていた。

「おはようございます」
「朝から掃除か?」
「えっ・・・」

 ダイスの台詞を聞いた後、レイチェルは一瞬キョトンとしてから、小さく笑い声を立てた。
 その動作には、昨夜青ざめていた片鱗は一切見られない。

「もう午後ですよ?」

 そう指摘され、今度はダイスの方がキョトンとした。
 この娘には本当によく切り返される。
 自分に隙があり過ぎるだけなのかも知れないが。

「疲れていたんじゃないですか」

 レイチェルにクスクス笑われ、ダイスは苦笑をしてカウンターに腰掛けた。
 昨日、粉々にしたビール瓶はすでに片付けられていた。
 昨夜は暗くてろくに見ることができなかったが、店内は木目で統一されており、一世紀前を思わせる独特の雰囲気に満ちていた。
 リカルドのこだわりが僅かながら伺える。

「何か作りましょうか?こう見えても料理できるんですよ、私」
「いや、いい。・・・トマトジュース、あるかい?」
「はい」

 レイチェルは笑顔を見せて、いつもはリカルドが立っているはずのカウンターの向こうで、グラスを取り出す。
 普段、この娘はこんなによく笑うのか。
 微笑ましくはあったが、暗い表情のレイチェルを多く見ているダイスには少し意外だった。

「どうぞ」

 目の前に差し出されたグラスをダイスは受け取り、まずは中身を半分ほどなくした。

「親父さんはどうしたんだ?」

 掃除を中断し、イス一つを挟んで自分の隣に座ったレイチェルに尋ねる。
 彼女は一瞬表情を暗くした後、答えてくれた。
 その寂しそうな顔を見ると、父を想う心が読み取れるようである。

「何も言わずに出かけてしまったんです」
「・・・そうか」

 ダイスは俯くレイチェルから目を反らして、まだ中身が残っているグラスを見つめた。
 しばらく、沈黙が二人を支配する。
 時々、僅かな身動きに合わせてイスが軋む音が聞こえた。
 その静寂は決して重苦しいものではない。
 むしろ心地良いものであった。
 後ろ髪を引かれる思いの中、それを最初に破ったのはレイチェルだった。

「あの・・・」
「なんだい?」
「昨日のお話のことなんですけど・・・力になってくれるって」
「ああ」
「今日の夕方・・・ここへ来てもらえませんか?」

 そう言ってレイチェルは一枚の紙切れをダイスに手渡した。
 彼は怪訝そうにしながら、それを見る。

「ランカスターロイヤルホテル、876号室・・・これは、君が?」
「はい。お見せしたいものがあるのですが、父に知られたくないので・・・」
「ここじゃダメなのか?」
「まだ手元にはないんです。けど、必ずお見せします。それがあれば・・・今の生活を変えられるかも知れないんです。だから・・・お願いします」

 彼女の目は必死そのものだった。
 表情の変化こそ微々たるものだったが、目は口ほどに物を言うのである。

「・・・わかった。その代わり、今度オレとデートしてくれよ?」

 レイチェルをリラックスさせるため、冗談っぽく自分で笑いながら言ってみせる。
 真剣な申し出ではあったが。

「え、あ・・・はい」
「それじゃ、決まりだ」

 彼女は意外な誘いに少し戸惑ったようだった。
 相変わらず初々しい反応である。
 微笑んでから、ダイスはグラスの残りの水を飲み干した。

「フランクと出掛けてくる。掃除の邪魔になると悪いからな」

 席を立ち、未だ夢の中の相棒を現実に引っ張り戻すために、階段の方へと向かう。
 その背中を、不意にレイチェルが呼び止めた。

「ダイスさん、私・・・その・・・」

 後ろめたいことがあるのだろう。
 何かを伝えようという意思は十分に汲み取れるが、彼女はダイスの方を見ることができずにいるようだった。
 実にわかりやすい少女である。
 ダイスは、もちろん全ての事情を呑み込んだわけではないが、そうであるかのような口ぶりで、優しく言った。

「言いたくないことを、無理に言う必要はないさ」
「・・・すみません」

 何かをしたわけではないのに、そう言うレイチェルの声は誠意のこもった謝罪のように聞こえた。

「気にするな」

 ダイスは静かに階段を昇って行った。
 また広い店内に一人になった少女の表情は、しかし晴れることはなかった。



 気持ちよく晴れた大空の下、ダイスはリアシートにフランクを乗せて海岸線を走っていた。
 波の音と潮の匂いが何とも心地よい。
 オープンカーでなければ味わえない感覚だった。
 前方には、ランカスターの摩天楼が見える。

「今日はいくらぐらい稼げるかな?」

 フランクが後部座席から顔を出して尋ねてきた。
 ようやくダイスが仕事をしてくれると言うので、その表情はとても明るい。
 人よりも勝率の悪いフランクは、しかしギャンブルをこの上なく愛して止まないのだ。

「そいつは運次第だな」
「ま、運だけで生きてるようなもんだからね、ダイスはさ」
「言ってくれるぜ」

 ダイスは相棒の軽口に苦笑をした。
 と、お金の話を切り出したところで、フランクはフッとあることを思い出した。

「あ、そうだ。昨日の約束、覚えてる?」
「何のことだ?」
「ボクの5万ドルを倍にして返してくれるって言っただろ?」
「そうだったっけか?」
「そうだったよ!ちゃんと返してよ」
「オレの野暮用が済んでから、な」

 お金に関することは絶対に忘れないフランクは、ダイスの態度に呆れたように溜め息を漏らして、シートにドスンと腰を下ろした。
 両手を広げてシートの背もたれに引っ掛けながら、空を見上げる。
 風はさほど強くなかったが、微かに雲が流れているのが見えた。

「どこ?また別の女のところ?」
「だとしたら、なんでおまえを連れてかなきゃいけないんだよ?」
「そりゃ失礼しましたねぇ」

 フランクはムスッとして腕を組む。

「ま、行けばわかるさ」

 ダイスはアクセルを踏み込んだ。



 太陽が西の空を赤く染め上げる頃、ダイスはフランクと共にレイチェルとの待ち合わせ場所に向かっていた。
 ランカスターロイヤルホテルの8階にある通路を、身長差の激しい二人は歩いている。
 15階建てのビルの中間付近にあたる位置だが、横に広く、一部屋の面積が大きい贅沢なホテルなので廊下が非常に長く感じる。
 活発な少年であれば、思わず友達と短距離走をしたくなるであろう。
 景観は、十世紀以前をテーマにしているらしい、クラシックな装飾が目立つ。
 赤を基調とした暖色のカーペットに、ランプを模した照明、多分高額であろう絵画も、興味はないが、ここに来るまででいくつか見ることができた。
 ダイスはこういう雰囲気はあまり嫌いではない。むしろ、好むところである。
 しかし、隣を歩く少年は金銭、取り分け紙幣にしか興味がないので、先ほどからひたすら無関心に歩を進めているだけだ。
 彼の人生がいかに寂しく、損をしているものかをいくら説いても、無駄である。
 やがて、ダイスはあるドアの前で足を止めた。

「876・・・ここか」

 レイチェルから受け取った紙と部屋の番号を確かめて、ノックする。
 返事はない。
 ノブを握ってみると、鍵がかかっていないこともわかった。
 ずっと頭の中にあった予感を、少しずつ確信に近づけていきながら、ダイスはドアを開けた。

「レイチェル、いるのか?」

 パッと見た限り、部屋には誰もいなかった。
 廊下と同じく、全体を赤系統の色で統一した部屋には温かさが漂い、高級感が感じられた。
 まあ、値段的にも高いホテルなので、当然と言えば当然であるが。
 それよりも重要なのは、父親の借金返済のために働いているというレイチェルが指定した場所としては、いささか相応しくないということだ。

「・・・ねえ、ダイス、これって・・・」

 言いかけたフランクだったが、独りでにクローゼットやシャワールームの扉が勢いよく開いたことに驚いて、口を閉ざした。
 黒いスーツを着込んだ男たちが次々と現れて、二人を取り囲んでゆく。
 二人は指示されるまでもなく両手を挙げた。

「聞き分けがいいな」

 リーダー格らしい男が、ダイスの眉間に拳銃を突きつけながら言う。
 他の男たちも皆拳銃を取り出して、二人に向けていた。
 数は六人。
 見事な手際である。

「恨みはないが、命令でな」
「・・・ジーナの差し金か?」
「さあな」

 そんなやり取りをしている間に、男たちはダイスらの身体を調べ、拳銃を奪い取った。
 性格上、口で言えば素直に渡してやる二人なのだが、そう言って信じてくれるはずもない。
 武器を取り上げられると、すぐに銃口で背中を小突かれた。

「ついて来い」

 調べた通り、ここのホテルはリースマングループが経営しているらしかった。
 勘という以上に、状況的にそれしか思い当たる節がない。
 それに、ただでさえ黒いウワサの絶えない財閥であるから、心当たりがすぐに確信へと変わってしまう。

「さあ、歩け」

 そう言われて、ドアの方に振り返った時だ。

「うわっ・・・!?」

 何者かに足を掛けられて、フランクはその場に思い切り倒れ込んだ。
 瞬間、ダイスは突然足元の床が抜けたように素早く腰を落とした。その勢いを殺さずに、右足で男たちの足を払う、いや刈り取るかのような蹴りを放つ。
 フランクはそれを床に張り付くようにして回避した。
 と、その際にさり気無く視界に入った足を思い切り引っ張ってやる。

「うっ!」
「き、貴様!?」

 四人の男がドミノ倒しのように倒れる中、ダイスの背後にいた二人は慌てて拳銃を彼に向けた。
 しかし、そのターゲットは蹴りを放った右足でそのまま床を蹴りつけ、左足で片方の男の拳銃を弾き飛ばした。そこから人間離れしたしなやかな肉体を最大限に活かし、右足のオーバーヘッドキックをリーダー格の顔面に叩き込む。
 同時に、両手で身体を持ち上げ、バック転の要領で着地したダイスに、正面に位置した男がすぐに拳銃が向けるが、それはフランクが掴みかかって阻止をする。

「ふっ!」

 独特の呼吸法で瞬発力を高めながら、ダイスは真後ろに振り返り、そこにいた相手に右の裏拳を叩き込んだ。
 続けざまに、それに遅れて回転してきた左のストレートでトドメを刺す。
 大きくのけぞりながら後方に倒れ込む男を尻目に、フランクの方に半身を返した。

「しゃがめ!」

 言うや否や、強烈な後ろ回し蹴りを放つダイス。

「うひゃっ!?」

 危ういところでそれを掠りながらも、何とかフランクは避けた。
 ダイスのその蹴りは見事に相棒が飛びかかった男の側頭部に直撃し、男の身体が吹っ飛ばす。
 間髪入れずに、先ほど転ばせた四人の拳銃を横一閃の蹴りで弾く。
 同じプログラムで訓練をしてきた連中らしく、緊急時の動作がひどく似通っていた。

「さあ、男らしく素手で勝負といこうぜ」

 軽く後方に飛んで距離を取りながら、ダイスは一応身構えるが、それは彼にとってさほど意味のあることではない。
 色々な格闘技を学び、習得していった結果として、ジークンドーのスタイルを確立した彼だが、そのベースは打撃、特に蹴りである。
 ボクシングなどの拳による攻撃法は、補助的なものとして少しかじっただけなのだ。どうやっても人間は足の方が筋力があるので、そちらを優先して使うことは確かに合理的ではある。
 ただ、格闘技が本業ではないので、強くなりたいだとか、最強を目指すとかそういった考えは全くなかった。
 あくまでスポーツとした楽しんだものを、いざという時に実戦に応用しているのだ。

「くそっ、なめやがって・・・!」

 男たちは勢いよく立ち上がるなり、ダイスに襲いかかった。
 四人同時ではあったが、一方向からなのでさほど厄介ではない。
 しかし、いくら何でも全員を一度に吹っ飛ばすことなどできないので、ダイスはとりあえず逃げた。

「この野郎、こんだけ言って逃げんのか!?」

 当然の台詞を吐いて男たちが追ってくる。
 ダイスは広い部屋を隅まで駆け抜けると、そこにあった背の高い観葉植物を持ち上げ、振り返りざまに敵の群れに放り投げてやった。

「おおっ!?」

 そのままぶつかると痛いことを本能が悟り、反射的に一人がそれを受け止めてしまう。
 ダイスは迷うことなくその男を選び、右足でやや踵落とし気味の後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
 顔面を思い切り蹴られた男は、観葉植物を抱いたまま崩れてゆく。
 これで、四人固まっていた連中が、数が減った上に一人と二人に分けられた。
 敵が怯んでいる間に、ダイスは床に叩きつけた右足を軸にして、今の蹴りを放った腰の回転を余すことなく利用し、今度は左足を振り上げた。
 それは二人の内の一人を襲う。

「あがっ・・・!」

 一瞬にして二人が床に崩れた。

「てめえ!」

 残った連中がダイスに襲いかかるが、彼にしてみれば数的にそれほど不利になるほどの状況ではなかった。
 それに、相手側はそれぞれが思うがままに拳打や蹴りを放つが、自分たちの距離が近すぎて返ってキレが悪い。
 ダイスは冷静にそれらを見切り、二人のラッシュを避け、あるいはガードをし、受け流す。
 こちら側から攻撃することは即ち相手にも攻撃の隙を与える行為である。
 そのリスクを可能な限り抑えるため、チャンスを伺っていた。
 しかし、

「ちっ」

 自分が倒した男の一人が意識を取り戻し、落ちている拳銃を拾おうとしているのが目に入った。
 まずいな。
 次の対策を考えねばならないのは事実だが、この状況では油断でしかなかった。

「ぐっ・・・!?」

 右の頬に一発食らったダイスは、大きく顔を振られてしまう。
 どんなに回避が簡単であっても、パワーさえあれば命中時にはそれ相応のダメージを受ける。
 更に、一度崩れた体勢を立て直すのは至難の業だ。
 それでも、一方的に叩きのめされることもなく防御の動作を取るが、どうしても足が縺れ、あっという間に壁際まで追い詰められてしまう。
 相手が背中を壁に打ちつけるのを見て、薄笑みを浮かべて殴りかかってきた男は、しかし次の瞬間に逆方向に吹っ飛んだ。
 ダイスの前蹴りが顔面に直撃したのだ。
 彼の手足が自分たちより遥かに長いことを忘れてしまっていたらしい。いや、気が付いてさえいないかも知れない。
 この場合、壁を背にできたことがダイスには有利に働いていた。
 お陰で後ろに倒れずに、無理な体勢からの前蹴りが放てたのだ。

「くっ!」

 最後に残った男が慌てて突き出した拳打も、ダイスは首を横に振るだけの動作で避けた。
 空中イスを強いられる状態であったため、それしかできないという事実もあったが、幸運にもそれで間に合ってくれたわけだ。

「いっつ・・・!?」

 思い切り壁を殴ってしまった男は、手を押さえて数歩後退する。
 ダイスは痛んでいる男に容赦なく掌底でのアッパーカットを入れた後、身体が伸びきった相手の顔面に追撃のストレートをねじ込み、仕留めた。
 だが、

「そこまでだ!」

 先ほど視界に入った男は立ち上がり、拳銃をダイスに向けていた。
 痛々しくも口内が出血している男はとてもしゃべりにくそうである。
 しかし、追い詰められた立場にあるのはこちらの方だ。

「両手を頭の後ろで組め」
「はいはい」

 一体何に向けられたものなのか、ダイスは大きな溜め息を漏らしながら、その命令に従った。

「後ろを向け」

 続いて出された指令も、素直に聞き入れる。
 さて、どうしようか。
 危機感もないわけではなかったが、それ以上に余裕があるのは彼だからだろう。
 そう考えている間にも、相手が後方から近づいてくる靴音が、カーペットながら僅かに聞こえてくる。

「大人しくしてろよ」

 ダイスには見えなかったが、男はまず彼の癖の悪い両手を封じようと、スーツのポケットから手錠を取り出していた。
 もちろん、拳銃はきちんと相手の背中、左側に突きつけたままである。
 片手をうまく使いながら、冷静に手錠を掛けようとした、まさにその瞬間のことだった。

「うおっ!?」

 突然ダイスの右手が動いて、手錠を持った男の手首を掴んでしまった。
 そのまま姿勢を低くしつつ、腕を振り回すようにして勢いよく引っ張る。
 男は右手で拳銃を持っていたため、左手を捕まえられたわけだが、そのお陰で身体が左へと回転し、銃口はあらぬ方へと向いてしまっていた。
 二人の男は互いに右に倒れ込んでゆくが、一方的に主導権を握っているのはダイスである。 
 彼は唯一床に触れていた右足をわざと振り上げ、完全に身体を空中に投げ出した。
 同時に、反動によって全身にかかる右回転の力を利用し、相手の後頭部、正確には首の裏側であるが、そこに思い切り左の肘打ちを叩き込んだ。
 不気味な衝突音とコンマ数秒の誤差で、二人の身体は床に落ちる。

「チェックメイトには少し早かったな」

 相手が失神したのを確認もせずに、ダイスはすぐに立ち上がった。
 そして、間もなく夜を迎える夕刻の景色と共に、半透明な自分の姿を映し出す窓ガラスを見やった。
 背後にいるはずの男の行動は、多少見えにくかったものの、彼にはほとんど筒抜けだったわけである。

「さて・・・」

 ダイスは決め台詞を言った自分に少しの間酔ってから、白い目をしてドアの方を見やった。
 角になっていてドアは見えないが、彼が見たい、睨みたかったのは、その角から顔を出した少年だった。

「逃げ足だけは早いな、おまえはよ」
「こういうのは、君の専門だろ?」

 ドサクサに紛れて一人だけ逃げていたフランクは、罪の意識や後ろめたさと言った感情など全く持っていない様子で、大きく息を吐き出しながら、黒いスーツで溢れ返っている部屋に今一度足を踏み入れた。

「まったく、物騒な世の中になったもんだよねえ」

 別に罪滅ぼしのつもりはなかったが、フランクはたまたま見つけたダイスの銃を拾って、投げ渡してやった。
 彼はすぐにそれを腰の後ろに隠すように仕舞い込む。

「愚痴を言っても始まらない。オレたちもその世の中に合わせればいいだけのことさ」

 その言葉にフランクは肩をすくめた。
 一方、ダイスはさっさと歩み出していた。
 銃を拾い上げたまましゃがんでいる相棒に、肩越しに振り返る。

「レイチェルが心配だ。早く行くぞ」
「はいはい」

 フランクは苦笑をして立ち上がった。



 ダイスたちを乗せた車は、しかし真っ直ぐ仕事場には向かわずに、パブ「ストレートフラッシュ」の前で停車した。
 車の所有者でもあるダイスの希望、というよりは決定で、ここに立ち寄ることにしたのである。
 フランクを車に残したまま、彼は店内に足を運んだ。
 あの鐘の音が耳に入るのと同時に、酒瓶を片手にカウンターにうつ伏せになっているリカルドが視界に入ってくる。
 店内の様子には、昼間の日差しよるものからから夕暮れの赤い日差しによる演出へと変わっただけで、随分と違った趣があった。
 どこか殺風景なのはレイチェルが綺麗に掃除したせいだろうが、その中にも木の温もりも感じ取ることができる。
 相反する情緒が絶妙にマッチしていた。
 しかし、それに思いを馳せる間も惜しんで、ダイスは切り出した。

「レイチェルはいるかい?」
「あいつなら出掛けたぜ」
「そいつは残念だ」
「・・・何の用だ?」

 酒場の店主は首だけを動かして、招かざる客を見やる。
 その客は生意気な笑みを浮かべながらこう言った。

「今朝もらったトマトジュースの代金をまだ払ってなかった」
「そんなもんはいらねえ。目障りだから、さっさと消えろ」

 リカルドはゆっくりと身体を起こすと、両手の甲で額を支えるようにして溜め息を漏らした。
 かなり酔っているようだったが、それだけとは思えなかった。
 それでも、ダイスは彼の言葉を無視して続ける。

「話はレイチェルから聞いてる」
「・・・」
「あんた、なんで自分の娘にあんな仕事を?」

 尋ねられて、父親は驚くのではなく、舌打ちをしていた。
 余計なことをしゃべってくれたらしい娘が、憎たらしく思えたのだ。
 彼は開き直ったように答えた。

「金だよ」
「何?」

 一瞬のダイスの表情に怒りが表れたが、それはすぐに消えた。
 リカルドが自分の見込んだ通りの男であれば、何の理由もなしに、本当にただ金欲しさに、娘を売りに出すような真似はしないはずだ。
 彼は次の言葉を待った。
 昨夜、レイチェルと共有したものとは明らかに異質の静寂に、ストレートフラッシュの店内は包まれる。
 やがて、沈黙に耐え切れなくなったリカルドは、瓶に入ったウィスキーを軽く喉に流し込み、それをきっかけに口を開き始めた。

「オレには連中に借金がある。そいつの利子が払えなくなったんで、レイチェルが目を付けられたのさ」

 店主は自嘲をするような笑い方をした。

「出来のいい娘をいい学校に行かせてやる。年頃の娘に綺麗な服を買ってやる。・・・そんな当たり前のことすら、オレはしてやれなかった。流行らねえ店にいつまでもしがみついて、借りた金を返せねえで・・・娘を苦しめて・・・どうしようもねえよ」

 さながら懺悔をするような中年の男に、神父の経験がないダイスは何も言ってやることができなかった。
 言うべきではないとも思った。

「オレがあいつにしてやれることは・・・もう、こんなことくらいしかねえ」

 リカルドは懐からピースメーカーを取り出して、ゆっくりとダイスに向けた。
 顔が僅かに紅潮してはいたが、その手元に狂いはない。
 銃口は真っ直ぐとターゲットの方を向いていた。
 そう言えば、昨夜の彼も少し酒を飲んでいるようだったか。

「・・・何の真似だ?」
「死にたくなかったら、銃を取れ。オレを殺すんだ」

 リカルドの表情は真剣である。

「オレが死ねば・・・10万ドルになる。自殺じゃ意味がねえんだ」
「・・・なるほど」

 ダイスは無言で腰の後ろから拳銃を取り出し、それを正確に相手の眉間へと向けた。
 すると、リカルドは笑みを浮かべる。
 好戦的だったが、纏ったその悲しさが消えることはなかった。

「これで二度目だな・・・だが、今度は空砲じゃねえぞ」

 彼はハンマーを上げながら、鋭い目をしてダイスを睨み付けた。
 しかし、それは所詮負け犬のものでしかない。
 軽く首を左右に振って、虚しい抵抗を図る中年の男を睨み返す。

「あんた、今自分がどれだけ惨めかわかるかい?たかが10万ドルのために・・・」
「うるせえ!カジノでバカみてえに金使って遊んでるようなヤツに、言われたかねえよ!」
「・・・それも、そうだな。オレにも、あんたの気持ちはわからない」

 ダイスは静かにハンマーを上げた。
 重すぎる沈黙が、赤く染められた空間に舞い降りる。
 鼓膜が張り裂けそうな無音の世界が広がった。
 耳を澄ませば、相手の吐息や脈拍まで聞き取れるのではないか、と錯覚させられる。
 そうやって、どれくらい睨み合っていただろう。
 張り詰めた緊張の中で時間の感覚すら失っていた。
 ダイスは、静寂を嫌ったわけではなく、タイミングを見計らって口を開いた。

「あんたの意識がなくなる前に、聞いておきたいことがある」
「・・・」
「レイチェルを・・・娘さんを愛しているか?」

 たとえ模範的でなくとも、父親に対しては愚問としかいいようのない言葉だった。
 リカルドは、自分の心に棲みついた濃霧を吹き飛ばすように、目を大きく見開いて叫んだ。

「当たり前だ!オレは世界中のどんなヤツよりも、あいつを愛してる。あいつを泣かすヤツは、神だろうが悪魔だろうが容赦しねえ。必ずぶっ飛ばしてやる!」
「・・・そうか」

 安心したように苦笑をした後、ダイスは憤怒を表すリカルドに改めて狙いを定めた。

「今度目が覚めたときは、ちゃんと伝えてやれよ」
「何・・・?」

 瞬間、銃声が響いた。
 それはまさに、この空間に溢れていた暗い思いが粉砕された破壊音であった。
 パイソンの銃口から硝煙が上がり、リカルドの身体は力なく床に倒れ込む。
 持ち主の手から滑り落ちたウィスキーの瓶が床で砕け散り、アルコールを含有する液体は木目の床の色を変えながら広がってゆく。
 ダイスは寂しさを表情に浮かべつつ、動かなくなったリカルドに歩み寄った。
 そして、その手から零れ落ちた拳銃、ピースメーカーを拾い上げる。

「たまには休むことも大事だぜ」

 リカルドの拳銃の引き金を引くと、カチッと玩具のような音が僅かに聞こえた。
 弾は、入っていなかった。







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